夜のお伽噺

アルのオリジナル小説置き場です

武蔵野奇談 「雨跡」



猫談議に花が咲き時間が過ぎるのは早いもの、満足したのか黒猫チコが
礼一郎の膝の上から降りたのを機に時計を見れば早十一時過ぎ。
心篭った夕食の招きに礼を述べ、長居の無礼を詫びる礼一郎の前に、
女夫は真女子に持って来させた紫の江戸小紋の風呂敷包みを解いた。
包みからは黒光りする一冊の手帳が。いや、手帳というには余りにも薄かった。

「これは慶長年間、岐阜美濃にあった小笠原家に伝わる
楮の樹皮で漉いた和紙でございます」
「表紙はご覧の通りの黒牛のハラコでございます」
「これを榎木様にお持ち帰り頂きたいと」

「その昔、紙は大変貴重なことから何度も洗いに出され、鋤き直していたようで、
その度に書き記した武将、大名の念が刷り込まれ、特殊な力を宿すことになったと
言い伝えられております」
「特殊な力?」
「はい」
「この紙に雨水をふくませた筆で、お逢いしたい方の名前を書くと
願いが叶うということでございます」
「まさか・・」
にわかに信じがたい話に笑い顔で礼一郎は女夫を見返した。

「信じられないことは尤も」
「でも榎木様、世には信じられないことなど多々ございます」
気迫こもる女夫の眼差しにたじろぐ礼一郎。
「それでは・・雨水で名前を書けば逢いたい人に逢えるということですか?」
「おっしゃる通りでございます」
「なぜにそのような奇特な物を私などに?」
「これも何かの縁でございます。お世話になった榎木様に差し上げたいと思います」
「不慮の事故に遭い、老い先短い身体。榎木様にお会いできるのはこれが最後かと・・」
「何をおっしゃいますか」
「綺麗なお嬢さんがいるではないですか」
「榎木様、私からもお願い申し上げます。どうかお納めになってください」
母の横で頭を下げる真女子。

手渡された手帳のビロードのようなしっとりした手触りが並の誂えとは
違うことはすぐに分かった。
「車の用意をしてまいります」
立ち上がった真女子の安堵の表情に礼一郎は、何かとんでもないものを
受け取ってしまったように思えた。






雨の中途方に暮れていた真女子の安堵した美しい顔。
真女子の突然の来訪に驚かされ心惹かれた礼一郎。
手料理を褒められ、含羞む真女子の可愛い仕草。
偶然の出会いが引き起こした恋心に、礼一郎は真女子にもう一度会いたいと
招かれた家を探したが、見当をつけていた場所は道すらない雑木林。
近所の者に聞けど、誰も知らないと首を傾げるばかりであった。


それから一ヶ月。寝ても覚めても真女子のことばかりで、
何も手に付かない礼一郎。
真女子に逢いたくて八方手を尽くしたが手がかりはなく、
残る手立ては帰り際に渡された怪しい黒い手帳。
雨水で逢いたい人の名前を書くと、願い叶うと言ってはいたが、
その時は尊母の戯言と聞き流していた。

しかし募る想いはいかんともしがたく、礼一郎は引出しから風呂敷包みを取り出し、
机の上に黒い手帳を置いた。
表の立派なハラコの装丁に比べ、中身は黄ばんだかび臭い和紙が
たったの三枚綴じられているだけ。
その不釣合いに礼一郎は溜息を付き腕組みしたが、
もはや騙されたつもりで尊母の言葉を信じるしかなかった。


数日後、真夜中の雨音に目を覚ました礼一郎、
慌てて起き上がると庭に置いた雨水受けに置いた皿を取りに行き、
机の上に黒い手帳を開くと、雨水を含ませた筆で「小笠原真女子」と
渾身の想いを込めて書いた。
果たして不思議なこと。紙の上で墨色に変わった雨水の文字が滲みながら紙を溶かし、
ついには恋煩いの礼一郎を嘲笑うように跡形も無くなり、
真女子への想いも最早これまでと礼一郎は肩を落とした。

スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://nighttale.blog97.fc2.com/tb.php/20-f102e1a8
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad