夜のお伽噺

アルのオリジナル小説置き場です

ひと夏の経験 7

それは一瞬のことでした。
まさしく電光石火の如くノリ子さんの前腕が俺の胸に食い込み、身体を壁に押さえつけられました。
グルシイ~
ノリ子さんは嘘つきです。自分からは絶対に手を出さないと言っておきながら、このありさまです。
それにしてもなんて力でしょう、女性とは思えません。

ノリ子さんの怒鳴り声で店内が静まり返ります。
なにごとが起きたのか、誰もがこのテーブルを注目しています。
鬼の形相を瞬時に一転させた雅子ママは、さも呆れ困り果てたとばかりに唇と尖らせました。
「もう、こちらのお客様、格闘技がお好きなんですって。ノリ子ちゃんと馬が合って、さあさあ、みなさんご心配なく、ウフフ」
あちこちから失笑が漏れ、店内の雰囲気は元に戻りました。
さすがに百戦錬磨、場慣れしたクラブのママの貫禄を見せつけます。
いえ、感心している場合ではありません。
なぜこんな目に合わなければならないのか、せっかくの花の金曜日が、地獄の金曜日になり果てました。

「お、お二人には、俺が殺人犯に見えます?」
「ミ・エ・ル」
またもや二人の声が見事にハモリます。
「ママ、一見おとなしそうな男が危ないのよネ」
「そうよ。虫も殺さないような顔して、殺人鬼だったりするのよ。ドラマの犯人ってみんなそうじゃない」
「わたし長い間水商売やってるけど、殺人鬼がお店に来たのははじめてよ。怖いわ」
頷くノリ子さんの腕に力がこもります。
グルシー、ダスケテー

このままでは、二人の女性捜査官による恐怖の取り調べを受け、俺は殺人犯に仕立て上げられてしまいます。
誤解が解けず、万が一警察に通報され連行されれば、事の真実は明らかになりますが、会社が知ることにでもなれば、警察沙汰を起こした俺はクビになってしまうでしょう。
どうしてこんなことになってしまったのか、幽霊の小早川さんの話をうかつに信用してしまった俺の下心が原因なのか、それともここは暴力バーだったのか……。

その時です。この危機的状況を救ってくれる天からの声にノリ子さんの押しが緩みました。
しかし残念ながら声の主は小早川さんではなく、件の紳士でした。
何事もなかったように腕を離し両手を払ったノリ子さんは、きまり悪そうに声の主に小さく会釈しました。
「ママ、お取込み中悪いが、今夜はこれで失礼するよ」
「ターさん、もうお帰り?お相手できなくてごめんなさい」
「ユミちゃん、よんどころない用事で今夜は来られないみたいなの……」
「ノリ子、好みのタイプだからって、あまりイジメちゃいかんよ、ハハハ」
「もう、ターさん違うわよ」
腰をもじつかせたノリ子さんは、照れくさそうにグシャグシャになった俺のスーツの襟を丁寧に伸ばしましたが、目は笑っていません。
見送りに立った雅子ママは、俺を横目で睨みます。
「ノリ子、絶対に逃がすんじゃないよ」


息を切らせ大急ぎでテーブルに戻ってきた雅子ママは、大きな顔に流れる玉の汗をハンカチで扇ぎ、取り調べが再開しました。
俺の二の腕を掴むノリ子さんを、もしちょっとでも押し返そうとでもすれば、俺の腕は木っ端みじんに……今まで以上に慎重な対応が求められます。
それにしても、小早川さんがユミさんとは一体全体どういうことなのでしょう。
「ち、ちょっと待ってください。お二人ともなにか勘違いしてませんか?」
「隣の小早川さんは男ですよ、ユミさんは小早川さんの彼女です」
「オマエ、寝言言ってんの?寝言は寝て言えよ」
鼻で笑うノリ子さん言う寝言とは?

「ノリ子、親切丁寧に教えておやり」
あきれ顔の雅子ママは、口を利くのも億劫そうに顎でノリ子さんに指図します。
「よく聞きな。ユミの本名はコバヤカワユヅル、弓矢の弦と書いてユヅル、だからユミ!」
俺は漢字を頭の中に浮かべます。弓弦とは男性女性どちらの名前でもおかしくありません。名前を聞いただけでは性別の判断はできませんが、幽霊の足は確かに男の足でした。
それに興味津々とサシコの写真集に見入る小早川さんの男目線……どう思い返しても小早川さんがユミさんという女性と結びつきません。

さも鈍い奴だと、苛立つ雅子ママは、二本指でテーブルを叩きます。
「ここどこだと思っているの!」
『暴力バー』とでもギャグをとばせば、場が馴染む……馴染むわけないよな……火に油を注ぐのは間違えありません。
「小早川さんから気さくなお店だと伺っています」
「確かに気さくですけどね、気さくもお客様によりけりよ」
「アナタ、本当にウチがどういうお店だか知らないで来たの?」
「お前、いつまで惚けるのか!」
俺の返答に業を煮やしたノリ子さんの衝撃の一言!
「ここゲイバーだぞ!」
「――ゲイバー?……」

口をポカンと開けた俺は店中を見まわします。
「ウソ……それじゃここにいるホステスさんはみんな――オ・ト・コ?」
「チンコ付いてるゼ」
「ノリ子、下品なこと言うのおよし」
なんということでしょう……全身から力が抜けました。
肩を落とした俺の様子が観念した犯罪者に見えたのでしょう、顔を見合わせた二人は、満足げにほくそ笑んでいます。

「アンタ、もう言い逃れできないわよ。ユミちゃんをどうしたの?」
「どうもしていません!」
すべてのことの成り行きを、やっと理解した間抜けな俺は、毅然たる態度で言い返しました。
「小早川さんおとといの昼間、笹塚の通りで、くも膜下出血で倒れたんです」
「くも膜下出血!」
「救急車で病院に運ばれたんですが、意識が戻らなくて、小早川さん、よほど困ったことがあったようで、幽霊になって俺の部屋に現れて、助けて欲しいって……」
「作り話はもうやめて、お願い本当のこと言ってちょうだい、あなたがユミちゃんの部屋に忍び込んで、乱暴して殺したんでしょ」
「なんで俺がお隣とはいえ、見も知らずの、それも男の部屋に忍び込まなければいけないんですか!」
「そんなこと言ったって、ユミちゃんとのっぴきならない関係になったって頷いていたじゃない」
俺はこのときノリ子さんが訊いた、のっぴきならない関係がどういう関係を意味するのか悟りました。
二人の恋愛対象は、俺とは違っているのです。

俺は雅子ママが先ほど言った、男は勘違いはなはだしく、思い込み激しいということを身をもって実感しました。
「お二人とも冷静になってください」
「オマエモナ」
何度も見事にハモル二人の声。

「お二人には信じられないことかもしれませんが、本当のことです」
俺は額の汗を拭い、おとといの深夜からのことを包み隠さず打ち明けました。
幽霊の小早川さんに拝み倒され、7階のベランダから小早川さんの部屋に入ったこと。
部屋にあった女性の洋服と靴、すべてを言われた通り俺の部屋に運び入れたこと。
スマホに保存されていたユミさんの画像を、今夜俺の部屋で帰りを待ち構えていた小早川さんの代わり消去したこと。
ユミさんにもう一度会いたいと憔悴する小早川さんに同情して、一緒にタクシーに乗って店まで来たこと。
そして、今この店に小早川さんの幽霊がいることを、確信を持って告げました。

「ノリ子……この坊や、巷で言う電波坊やなの?」
こめかみで人差し指をクルクル回す、雅子ママの困り果てた顔。

「ママ、面白そうだから、かまってみる?」


つづく。


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ひと夏の経験 6

話の流れが、どうにも腑に落ちないとばかりに、雅子ママは気味悪そうにノリ子さんに顔を向けました。
「そうだった。ママ、ユミはあれから笹塚に移ったんだわ」
「ねえ、なんなの。笹塚繋がりのことばかりで……」
雅子ママが首を傾げるのも無理ありません。
すべての発端は、笹塚にある俺の部屋からはじまっているのです。

「ねえ遠山さん、あなたもお仲間なのは分かったわ。あなたを信用しないわけじゃないのよ、でもあの子に彼氏がいることがピンとこないのよ」
言葉を選び、真摯な態度が好印象を与えたのか、はやくもこの店の仲間のひとりとして認められました。
華やかな女性たちの秘密の会話に加わる……ついに俺も大人の男と認められたと感慨に浸ります。

「あのね遠山さん、ユミちゃん、男で大変な目にあっているの」
雅子ママはノリ子さんの顔色を窺いながら呟きました。
「大変なことですか?」
大変なこととは、いったいどんなことか、ましてや男がらみのこと、今度は俺が身を乗り出しました。
首をすくめたノリ子さんを気遣うように、雅子ママは浮かない調子で話を切り出しました。

「彼女がね、遊びに行くバーでね、事件があったの」
「あの子、遠山さんが見たような画像を自分のサイトに上げていてね、あなたが言うように可愛い形をしているから、人気者だったのね」
「自分の姿だけなら何の問題はなかったのに、週末はこのお店にいます、なんてお店の看板とかをアップしたから、居場所が特定されちゃったの」
「憧れの子がそこにいると分かれば、その手の男は会ってみたいと思うじゃない、あなたみたいに」
「――そ、そうですね……」
雅子ママは俺の下心をとっくに見透かしていました。

「はじめは偶然を装ってユミに近づいたのね。たぶんその男はサイトでユミとツイートし合っていたんでしょう。だからはじめて会ったのに、昔から知り合いみたいに意気投合してね、何度かそのバーで会っていたの」
「勘違いさせたユミも悪いの、男ってすぐ勘違いするし、思い込み激しいから」
「す、すみません……」
小心者の俺は自分のことを言われているようで、身を縮めました。
「あなたが謝ることないの!いい人ばかりじゃないってことなの!」
「その勘違い男が、場所もわきまえずユミに交際を迫ってね、ユミが色よい返事をしないものだから、嫌がるユミを強引にバーから連れ出そうとしたの」
「その場に雅の常連さんと居合わせたノリ子ちゃんが、この子、正義感強いから、仲裁にはいったの」

「二人のやり取りが、嫌でも耳に入ってさ、同類のユミのことを見下してバカにするから、頭きちゃってさ――遠山さん聞いて!わたしからは絶対に手は出さないかったわ」
話を引き継いだノリ子さんの鼻息が荒くなりました。

「もう売り言葉に買い言葉で、その男、頭に血が上ったのね、私の胸倉を掴んで押し倒そうとしたの、だからチョンと足払いしたら床にひっくり返って……」
「チョンとですか?」
「そうよー、軽くよ。しょうがないねって起こそうと手を貸したら、そいつ起き際、いきなりナイフを私の顔に向けて振り上げて」
目を吊り上げたノリ子さんは、まるでボクサーが相手のパンチをよけるように右腕で顔面を防御し、身体を左に振り再現しました。
「ノリ子ちゃんは反射神経抜群だからねぇ~」
顔をほころばせた雅子ママは、ノリ子さんの鋭い動作を惚れ惚れと見ています。

「サッとかわしたんだけど、肘から血がタラリって」
「わたし、スイッチ入っちゃって、ナイフを叩き落として、そいつの右腕をバキって……」
「折ったんですか?」
「知らないわ、腕抱えて泣きながら逃げてったから」
「わたしとユミはその店出入り禁止になっちゃうわ、夜間診療に駆け込むわ……その晩は散々だったわ」
「ユミも懲りて、しばらく大人しくしてたんだけれど、出掛けるところなくなって、つまんないって言うから、ママに相談したの。ママ、ここなら心配ないから遊びにおいでって言ってくれて」

「いろいろお話してね、人見知りもしなくて人当たりもいいのね、お客にしておくのはもったいないのよ」
「ノリ子ちゃんを姉のように慕っていて、ノリ子ちゃんの勧めもあって、もしよかったらここで働いてみるって水を向けたら、二つ返事でね。平日はお勤めしているって言うから、週末だけバイトに来てもらうことになったの」
「今まで遅刻も無断欠勤のなくて、根が明るい子だからお客様に可愛がられて、なんの問題もなくてね……」
「そのユミちゃんが、彼氏……それも隣の部屋に忍び込むような破廉恥な輩だとは、私とても信じられないの」

居ずまいを正した雅子ママは、真剣な面持ちで俺に向き合います。
「遠山さんよく聞いて。ユミちゃん、おとといから連絡が付かないの、誰が電話しても出ないの」
「あなたがそのお隣さんに襲われたのがおととい、その男が平然とユミちゃんの写真をあなたに見せたのが今夜、その男はユミちゃんが店にいないのを知っていながら、あなたを店によこした……」
「誰が聞いても妙な話よね」
「ちゃんと説明しないと帰さないよ」
ノリ子さんにすごまれ、恐怖に震え、腕を擦った俺は、もはや真実を話すしかありません。

「――信じられないかもしれませんが……お隣さん幽霊なんです」
「ユ・ウ・レ・イ?」
二人の声が見事にハモリます。
「アンタ!そんな子供だまし言って、ただじゃおかないよ!」
すごい剣幕で俺を睨みつける、雅子ママの雷が落ちました。
「嘘偽りなく、本当です、本当のことです」
「オマエいい根性してるな!それじゃ聞くぞ、その幽霊の名前は、名前を言えよ!」
ノリ子さんに吊し上げられ、絶対絶命のピンチです。
「お、お隣の幽霊の名前は――小早川さんです」

「ナニ!テメー、ユミを殺したのか!!」


つづく。


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ひと夏の経験 5

俺と小早川さんを招き入れた女性のあとから、落ち着いた明かりの店内を進む。
真直ぐ伸びた長い脚、モデルのように優雅に歩く後姿、それに引き換え俺の膝は緊張でカクカクと音を立てている。スターウォーズに登場する金色のロボットのように、ぎこちなく歩く俺に向ける物珍しそうな客たちの視線が痛い。

テーブル席は大方が埋まっていた。俺は壁際で女性と談笑していた中年紳士の席に案内されます。
「ターさん、ごめんなさい。悪いんだけど席譲ってくださる?ママがこちらの方とお話があるみたいなの……」
ママからお話し――いったいどういうことなのか……不安になった俺は、後ろにいた小早川さんに……小早川さんがいない!
焦って店内を見まわすと、小早川さんは席を飛び回りはしゃいでいます。
はしゃいではいますが、誰も気付きません。今この店の中にいる人たちには幽霊の小早川さんが見えないようです。きっと、ここにいるユミさんにも彼氏の姿は見えいないに違いありません。
悲しくも、愛は奇跡を起こしませんでしたが、俺の誠意が試される状況になったきました。

俺を一瞥した紳士は、どうぞどうぞ、と気前よく席を譲ってくれましたが、すれ違いざま俺の尻をポンとたたき、意味深な薄笑いを浮かべ立ち去っていきました。
意味ワカラン!
ソファーの一番奥を勧められた俺は、案内した女性と並んで腰を下ろし、待ちかねたように、金髪のボーイさんがテーブルを片づけます。
「ちょっとお待ちになって、すぐママが来るから」
彼女から覚えのある甘い香りが漂います。さて、どこで嗅いだのか……。

渡されたおしぼりで両手を拭っていると、ほどなく紫のロングドレスの裾を摘み上げ、真っ赤なエナメルのヒールを見せびらかすように闊歩する、体格のいい女性が笑みを浮かべ俺の前に腰をおろしました。
「はじめまして、雅の雅子です。よろしく」
髪の毛をアップに結い大きな顔がさらに強調されているような印象です。酒がれした声は夜の仕事の年季を感じさせます。
「お隣はノリ子ちゃん」
「ノリ子でーす、よろしく」
「……」
「ああ、遠山です。不慣れで失礼しました」
「いいのよ、こういうお店にはじめておひとりでいらっしゃるのは勇気のいることよ。みなさん二次会とか三次会の流れで、大勢でいらっしゃるのよ」
やはり雅子ママにも小早川さんの姿は見えてはいませんでした。
「おビールでいいかしら?」


ノリ子さんに酌され、三人でお決まりの乾杯で小さなグラスを掲げます。
冷えたビールが緊張で乾いた喉に染みる。ウメ~
「ユミちゃんの紹介と伺って、みんなびっくりしちゃって。あの子今まで一度もそんなことなかったのね」
「失礼だけど、ドアの外の遠山さんの様子がね、なにか訳ありに見えるって、ノリ子ちゃんが言うから、ちょっと気になることがあってね、入っていただいたの」
「ユミちゃんとはいつお知り合いになったの?」
俺とユミの関係に雅子ママは疑問を抱いている。さすがにこれだけの店を切り盛りする女性ならではの鋭い勘に感心しました。
俺は店内に目を泳がせ、小早川さんを捜します。
小早川さんは先程席を譲ってくれた紳士の隣に腰かけ、俺の視線に気づいたのか、微笑みだけを返し、こちらに来る素振りも見せません。
この店に来るまでのいきさつを、二人にどう話せばいいのか、ない頭を絞ります。

「――実は、先程なんです」
「ちょっと待って、先程って、今夜?」
「はい、そうですが……」
「遠山さん、ユミちゃん今夜はお休みなのね。ご存じなかった?」
「えっ、お、おやすみですか?」
小早川さんから聞いていた話と違う現実を突きつけられ、ここは退散した方がよさそうだと、危険を察した胸のカラータイマーが赤に変色しはじめる。
「それじゃ、また改めて……」
腰を浮かせた俺は、にじり寄るノリ子さんに両肩を押さえられ、ソファーに沈みこんだ。
ヒェ~!と悲鳴を上げてしまった俺でしたが、どなたかが歌いだしたカラオケの音に消され気付く人はいません。
「ノリ子ちゃん、乱暴はいけませんよ。遠山さんごめんなさいね、ノリ子ちゃん武術の有段者ですけど、ゴキブリ一匹も殺せないの、本当はとても臆病なのよ」
無言で睨むノリ子さんの怖い顔からは想像できないことでした。怖いお兄さんはいませんでしたが、怖いお姉さんはいました。

「お話の続きね、今夜どこでユミちゃんと会ったのかしら?」
ノリ子さんに退路を塞がれ、頼みの小早川さんには無視され、俺は孤軍奮闘するしかなかった。
「正直に言いますと、ユミさんとは実際にお会いしたことはないんです」
「それ、どういうことかしら!」
急に雅子ママの声が棘立ち、焦りました。ここは誠意を尽くし、慎重に言葉を選ばなくてはいけません。

「えーとですね、ユミさんとお付き合いしている彼氏さんのスマホに保存されていた、ユミさんの画像を見せてもらって――可愛い人だなって思いまして……」
「ナニ、ユミの彼氏!!」
目を丸くさせた二人は驚きで上げた声を、両手で口を覆いのみ込みました。
やはり、お店の中でホステスさんの彼氏の話は禁句なのでしょう、顔を寄せ合った二人は、コソコソ呟きます。
「ノリ子、ユミの彼氏って、知ってる?」
「ママ、聞いたことないわ。だってあの子……」
「そうよね……」
「遠山さんとその彼氏とはお知り合いなの?」
上目づかいに小声で尋ねる雅子ママに、俺はテーブルの上で腰を屈め顔を寄せます。
確かに小早川さんは気さくな店だと言っていましたが、一見客でしかない俺への二人の客あしらいは、フレンドリー以上なものを感じさせます。
やはりクラブと名の付くお店だからでしょうか、先輩に連れて行かされたキャバクラの女の子たちとは全く違います。
俺も自然と声を落としました。

「知り合ったのはおとといの深夜ですが、寝ているところに突然現れまして……」
「サウナかどこか?」
「いえ、自分の部屋です」
「えっ、部屋で寝ているところに、突然!やだ!それで、それで」
なぜか俺の話に身を乗り出した二人は、話の続きを急かせます。
「急なことで驚いたんですが、そんなことはじめてのことですから……」
「怖かったんですが、どうしてもって」
「そりゃ怖いわよ。身の危険感じるわよ」
「それで遠山さんは、その彼とのっぴきならない関係になったのね?」
ノリ子さんの言う、のっぴきならない関係がどういう関係なのか、よく分かりませんでしたが、せっかく打ち解けた雰囲気に水を差すこともないので、俺は軽い気持ちで頷いていました。

「ノリ子ちゃん、そんなこと実際にあるのね」
派手なため息をついて、大きく開いたドレスの胸の弛みを直す雅子ママ。ちらつく豊満な赤いブラジャーに目のやり場に困る俺に、雅子ママはニタッと微笑みました。
母以外の女性の下着、それも情熱的な赤い下着を見たのははじめてです。

「そうよママ、今は信じられないようなことが平気で起こるのよ」
確かに信じられないようなことが俺の身の回りに起こったのです。
「その彼はどこの人なの?」
「隣の人です」
「えっ、えっ、お隣さん!」
「お隣さんが忍び込んできたの?呆れた……でもよく見るとあなた可愛い顔しているもの」
「ねえねえ、遠山さんのお部屋ってどちらにあるの?」
興味津々に瞳を輝かせるノリ子さんは尋ねます。
「笹塚のワンルームマンションです」
「笹塚!ここから近いじゃない。私、引越し考えているのよ」

「ねえノリ子、ユミも笹塚だったわよね?」


つづく。


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ひと夏の経験 4

マンション前で流しのタクシーが拾え、幸先のいいスタートに俺の気持ちは弾んだ。
小早川さんを先に乗せ、初老の運転手に、新宿までお願いします、と行き先を告げ乗り込んだ。
「新宿はどのへんですか?」振り向く運転手に尋ねられ、俺は小早川さんに顔を向け伺う。
「新宿通りを四谷方面に向かうように言ってください」
この運転手には小早川さんは見えないようだ。俺は小早川さんに言われた方向を告げた。

甲州街道に出たタクシーはスピードを上げる。
車窓を過ぎる街並みを見詰め、物思いに沈む小早川さんの横顔、果たして、ユミさんは自分の姿が見えるのか否か……小早川さんの心中を察する。
もし見えなければ、小早川さんの代弁者として俺の言葉を、ユミさんに信用してもらうしかない。頭のおかしな奴の戯言と、気味悪がられないように、ここは俺の誠意が試されるな。
コケティッシュなユミさんにお会しても、舞い上がっちゃいかん。気を引き締めなければ。
でもよ、親身になって彼女の傷心を癒やしてさ、あわよくば小早川さんの代わりにお付き合い、なんちゃって……妄想が膨らむ。
「遠山さん、なにニヤニヤしてるの?」
「してませんよ」
咳払いした俺は、背筋を伸ばした。

「どうして小早川さんが見える人と見えない人がいるのでしょうか?」
平凡な俺に第六感が働くわけもなく、ましてや特殊な能力が備わっているとも思えませんでした。
「私も不思議だったんだけど……何となく分かった」
幽霊が感じる不思議とはいったいどんなことなのよ。幽霊と一緒にタクシーに乗っていることのほうが俺には不思議ですけど……。

「今日、マンションの近所をうろうろしてみたのね。笹塚駅とか、よく行くコンビニ、私が倒れた所とか――道行く人の前に飛び出して驚かせてみたんだけれど、女性には全く見えなくて、ほとんどの男性にも見えなかったのね」
ナニ、女性には見えない!ということはユミさんにも見えない?
まてよ、二人の愛情が奇跡を起こすかもしれない。愛が奇跡を!そんな映画があったよな。
「唯一、私の姿に驚いたのは少年たちだけ。昼間なのに信じられないものを見たと、呆然としていた」

「駅のそばに小学校があるでしょ、前を通ると懐かしいリコーダーの音が聞こえてきて、音に誘われて門を抜けたの」
「私、リコーダー得意だったの。指使いが上手いって褒められてね、ウフフ……」
なぜか妙な薄笑いをした小早川さん。
「音楽室はすぐに分かって、若い女の先生の伴奏で20人ぐらいの子が吹いていたわ」
「黒板に、めざせ金賞!て大きく書いてあって」
「合奏コンクールにでも出るんでしょうか?」
「そうみたい。それでね私、伴奏の先生の後ろで、みんなに向かって両手を振ってみたの、見える~って」
「目を丸くした男子のリコーダーの音がピ、ピヤーって悲鳴のような音に変わって、先生の後ろにお化けがいるって大騒ぎになっちゃって」
「泣き出す子もいて、先生ヒステリックな怒鳴り声上げて、私、焦って何度も謝って窓から逃げ出したわ。そしたら窓に向かってキャーキャー叫んじゃって、ちょっと刺激が強すぎたかしら……」
「怖かったと思いますよ。俺だってはじめて見たとき震えましたから」

リコーダーの音に誘われた幽霊。学校の怪談として語り継がれることは間違いないだろう。
「――ということは、男の子供にだけ見えるっていうことでしょうか?」
「まあ、そういうことだと思う」
「でも変ですね?俺は大人ですけれど、小早川さんが見えます」
「さあ、どうしてでしょうねぇ……」
無理に可笑しそうな顔を押し殺した小早川さんの口ぶりは、俺の頭の回転の鈍さを言いたげでした。

独り言を繰り返す俺のことを訝り、何度もミラーに向ける運転手の視線が気になる。
小早川さんもそれに気付いていたようで、俺の脇腹を肘で小突いた。
「遠山さん、適当な言い訳考えて、運転手さんに言っておいたほうがいいよ。交番の前で止められたら大変よ」
「そうですね……」
「運転手さん、すみません。俺、素人劇団に入っていて、明日までに台詞覚えなくちゃならなくて。独り言呟いて申し訳ありません」
「なるほど、そうでしたか」
運転手の安心した明るい返答に、小早川さんの笑い声が重なる。
「遠山さん、劇団員だったの?知らなかった」
「カンベンしてくださいよ……」


タクシーは新宿駅南口の渋滞を抜け、新宿通りを四谷方面に向かう。いくつかの交差点を越え、小早川さんが指さす路地の入口にタクシーを止めさせた。
小早川さんに道案内され路地を進む。すれ違う人たちは誰も小早川さんに気づくことはない。
ユミさんが勤めている店は、人通りの少ない新宿の奥に建つビルの2階にあった。
派手なネオン看板は無く、俺の知っているキャバクラとは全く違う雰囲気が漂う。
小早川さんに促され狭いエレベーターを降りると、見るからに重厚な木製の扉に閉ざされた酒場の前に立った。

クラブ雅、会員制。
ドアに打ち付けられた真鍮の文字が妖しく光っています。
「クラブみやび……こ、ここですか?」
「そう」
一見客を拒む、得も言われぬ店の佇まいに怯んだ。
「高そうですが……」
俺は薄い財布の中身に気を揉んでいた。
「大丈夫よ、気さくな店だから。遠山さんには迷惑はかけないから心配しないで、さあ、インターフォン押して」
「怖いお兄さんとか出てきませんか?」
「もう、そんな人いないから、さあさあ」
幽霊の小早川さんに太鼓判を押されても、生身の俺には不安がよぎるが、ここまで来たら戻るわけにはいかない。覚悟を決め、壁に埋め込まれた金属製のインターフォンを押した。

しばらくすると、インターフォンが女性の声を発しました。
「会員制ですが、どなたかのご紹介かしら?」
慌てた俺は小早川さんに助けを求める。
「ユミの紹介と言って」
「あの……ユミさんの紹介ですが……」
なぜ小早川さんは紹介者に自分の名前を言わず、ユミさんの名前を出したのか、舞い上がっていた俺は深く考えることはありませんでした。常連客である小早川さんの考えに疑問は感じませんでした。

プチッ、とインターフォンが切られ、長い沈黙……天井から見下ろす防犯カメラが赤く点滅したような気がしました。
ガシャ、とドアが音を立てゆっくりと開き、ドアの向こうに背の高いボーイッシュな女性が、俺を品定めするように視線を上下させ、俺は身構えます。
「いらっしゃいませ、どうぞお入りになって」
2着で29000円のビジネススーツですが、小早川さんの助言に従い、ダサい私服で来なくてよかったと胸を撫で下ろしました。

ドレスコード無事クリア!


つづく。



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ひと夏の経験 3

翌日、寝不足でミスを繰り返した俺は先輩に怒られ、散々な一日だった。
花の金曜日とはいえ特別な用事もなく、ひとり夕飯を外で済ませ部屋に戻ると、幽霊の小早川さんがベッドに腰かけていて、ぎょっとした。
「お邪魔してま~す!」
心配事が無くなったのか、なんとも明るい声である。
「昨夜はありがとうございます」
なんと返事をしていいのやら迷いながらも、いえいえ、どういたしまして、と愛想笑いする俺は、すっかり営業職が身についていた。

「その後容態は?」
「芳しくないみたいで……でもまだ心臓は動いています」
「勝手に入ってごめんなさい。遠山さんってサシコが好きなの?」
「写真集があったから、好きなのかなって……」
藪から棒に、なにを言いだすのやら、指原莉乃のことである。
まいったな、ベッドの下に隠しといた写真集見つかっちまったよ……赤らむ顔を作り笑でごまかした俺は曖昧に頷く。
中学の時、母親にエロ本を見つけられた時と同じ恥ずかしさがこみ上げる。
「投票とかするの?」
総選挙のことであろう。
「いえ、いえ、そこまでコアなファンではないです」
「それ今話題の写真集だよね?」
写真集に興味を示す小早川さんは、幽霊になってもやはり男である。
「見ます?」
「うん、うん」

膝を突き合わせ、床にひろげた写真集を二人で見入る。
「この子なかなかのボティーの持ち主ね。着痩せするタイプかしら……大胆ね」
ページを捲る度に小早川さんは唸り、感嘆する。
写真集を閉じると、小早川さんは少し色めいた溜息を吐き、参考になった、と意味不明の感想を述べた挙句、なんとも返答に困る問いかけを簡単に口にした。
「遠山さんは、どれがお気に入り?やっぱり、寝そべる下着姿かな?」
開き癖のついたページを目ざとく見つけた小早川さんに、お気に入りをズバリ当てられ、ばつの悪さに話題を変えた。

「ところで、小早川さん何か御用ですか?」
「スマホを取ってきてもらいたくて、お邪魔しました」
小早川さんのスマホはテーブルの上で充電中だった。小早川さんは何も言わなかったのでそのままにしておいたが。
「お安い御用です」
昨夜のことを思えば、容易いことである。
廊下に誰もいないことを確かめ小早川さんの部屋に忍び込む。物音を立てないようにスマホを充電器から外す。
空き巣は入る時より出るときが神経を使うと警察ドキュメントで見た覚えがあったが、廊下で見張り役の小早川さんの「大丈夫」の声を聞いた俺は安心して部屋を後にした。


ベッドに並んで腰かけ、教えられたパスワードを小早川さんに代わって入力する。
表示された何件もの着信履歴を顔を寄せ合い見入る。
「いやだ、こんなに掛ってきてる。同僚に上司に……やだ、実家からも」
「みんな心配していますよ」
その時である、スマホが突然振動し、危うく床に落としそうになる。待受け画面が女性の画像に変わり着信を知らせる。
「あら、ママからだ」
「ど、どうします?」
母親からの電話に慌てた俺はスマホを小早川に向け、顔色をうかがう。
「私は病院だから出るわけいかない。それに私の声はたぶん聞こえないと思う」
連絡のつかない小早川さんを心配する悲痛な叫びにも似た長い振動が止み、部屋に静寂が戻る。 
肩を落とし憔悴する哀れな小早川さんに同情したのもつかの間、小早川さんの、またもや意味不明のひと言に開いた口が塞がらなかった。
「身元が隠せるのは今夜一杯ね」
この人、いいえ、この幽霊一体何者?

「私のスマホがここにあっちゃ大変なことになる。遠山さん、急いで私の電話番号を登録して。でもなにがあっても発信しちゃ駄目よ。ややこしくなるからね」
まず幽霊に電話することはないと思いながらも、言われた通りに早川さんの番号を登録する。
「急いでアルバム開いて!」
アプリをタップすると、若い女性の縮小画像が画面に埋め尽くされる。
「これって、小早川さんの彼女ですか?」
いずれ顔を合わせることになると思ったが、好奇心に駆られた俺は失礼を顧みず、尋ねずにはいられなかった。
「気になる?」
ニヤリと薄笑いをうかべる小早川さん。
「ええ……見てもいいですか?」
「いいよ」

画面中央の肩を出した黒い洋服姿の画像を選びタップする。
栗毛色の髪が肩にかかり、少し幼さを残した細面の女性がミニスカートから伸びた細い両脚を斜に揃え、ソファーに腰かけ笑みを向けていた。
背後の様子から察すると……キャバクラ?
小早川さんの彼女はキャバ嬢?
先輩に連れられて行った池袋の店を思い出す。生まれて初めて行ったキャバクラの雰囲気に圧倒され、しり込みした苦い経験がよみがえる。
俺は先ほどの写真集の仇を取るつもりで、画面に指を走らせた。
しかし、憎たらしいまでの彼女の可愛さに見惚れ、指先のスピードは徐々に落ち、今度は俺が色めいた溜息を吐いていた。

「彼女さん、可愛いですね」
「ありがとう……でも、もう会えないかもしれない」
そうなのだ。生死の境にいる小早川さんは成り行きによっては、二度と彼女に会えないのだ。
俺は同情を禁じえなかった。
「会いたいですか?」
「未練はあるけど……ユミには私が見えないと思う」
「ユミさんというお名前で?」
小早川さんは悲しげな表情で頷きました。

なぜか、幽霊の小早川さんを見える人間は限られているのだ。どのような理由があるのかは俺にもわからない。
「俺にできることがあれば、力になります」
その時の俺は、白状すると実物のユミさんに会ってみたかったのだ、画像のユミさんに一目惚れしていたのだ。
男の劣情を刺激する黒い下着姿の画像も気持ちに拍車をかけていた。
そんな俺の気持ちを知ってか知れぬか、小早川さんの言葉は俺を満足させるものだった。
「遠山さん、一緒にお店に行ってくれます?」

後ろ髪を引かれる思いで、ユミさんのすべての画像を消去した俺は、小早川さん急かされ、スマホを充電器に差し込み直し、一目散に部屋に戻った。
着替えようとした俺の私服を見た小早川さんに、「ダサ!」とダメ出しされ、仕方なくネクタイだけを外し、部屋を後にした。
人様の彼女に会うとはいえ、俺にも花の金曜日がめぐってきたことを実感し、思わず鼻歌がもれる。

「お店はどこですか?」
「新宿!」


つづく。


親愛なる読者の皆様、残暑お見舞い申し上げます。
毎度つまらない拙文にお付き合いいただき、誠にありがとうございます。
たまには拍手も忖度のほどヨロシク!
楽しい夏休みをお過ごしください。



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ひと夏の経験 2

「サッシはいつも鍵を掛けてないから」
10階建のマンションの高層階とはいえ、普段から鍵を掛けないとは、不用心ではないか。
世の中信じられない手口で空き巣をはたらく輩がいるのだ……とは言っても今さら幽霊に注意しても無意味なことだな。

俺はとりあえず状況を判断するつもりでベランダに出た。
熱帯夜の暑気を帯びた空気が肌にへばりつく。
向かいのマンションの通路には人影はなく、下の幹線道路を走る車もなかった。エアコンの室外機だけが低い唸りを上げていた。
隣との境は見慣れた石膏ボードの仕切り板で塞がれています。火事でもないのに、仕切り板を蹴り破ることは当然まずい。
誰もない、ましてや亡くなりそうな住人の部屋に俺が闖入したことはすぐに分かり、空き巣の嫌疑をかけられるのは間違いありません。
幽霊のお隣さんが許可したなんて、誰も信じませんよね。
仕切り板の上の空間は室外機が邪魔をしています。
「ここからは無理ですね」
俺は肩をすくめお手上げのポーズをとった。

「ですからススッと手すりを伝わって……」
「ススッって、あなた、ここ何階だか、7階だよ、ナナカイ!」
「怒鳴らなくてもいいでしょ、自分の部屋ですから知っていますよ。大きな声をだしたら、よその人が起きちゃうでしょう」
「……ごめん」
「でもよ、あなたは幽霊だからススッと行けるだろうけど、こっちは生身の人間ですよ。
足でも滑らせたら、それこそあなたと同じになっちゃうでしょうが」
「だめでしょうか?」
「嫌です」
「祟るよ」


唇を尖らせ顎に手をやり考え込む俺にすがる幽霊。初対面なのにずいぶん馴れ馴れしい態度だが、腕を握られている感触は全くない。
幽霊の言うとおり、残る方法は手すりの外側から入るしかなさそうだ。
手すりから身を乗り出すと、幸か不幸かつま先立ちできる狭い足場がある。
その時、真下の歩道を横切る黒い物体に目がいく。黒猫だ。不吉な予感……。
頭上の気配を感じたのか、立ち止まりマンションを見上げる黒猫の黄色い瞳が俺を見詰める。
シッシ、あっちに行け!

隣のベランダの手すりとの間にタイル壁の幅が目測で1メートル。思いきり腕を伸ばせば隣の手すりに届くか微妙な距離だ。
両手をすり合わせ懇願する幽霊。
仕事柄、病院の待合室で嘆き悲しむ患者の家族を何度も目の当たりにしている俺は、厄介なことに巻き込まれてしまった後悔と病魔に突然襲われた不幸な男への同情が交差する。
しかし、なにより祟りが怖い。

部屋のドアの鍵を外したことを確認した俺は、ベランダで準備運動しながら頭の中でシュミレーションした。
両手の脂汗をタオルで拭いベランダの手すりを握る。誰かが、下着姿の俺の不審な行動に気が付き、警察に通報されないことを祈り、頬を叩き気合を入れた。
内村航平を気どる。
まず右ひざを手すりに乗せ慎重に跨ぐ。ここでバランスを崩したら、幽霊と仲良く手を取り彼の世行決定だ。
下は絶対に見ないことに決めていた。おいでおいでと手招きする黒猫と視線を合わせたくない。
右足のつま先で足場を探る。素足にコンクリートのざらっとした感触。着地させたつま先で身体を支え、慎重に左足を外側に出す。
第一段階完了。
つま先立ちし、手すりを抱えるようにして境まで一歩ずつ横に移動する。
第二段階完了。

左手で手すりを握り締め、右手の五本の指をタイルに擦り這わせ隣の手すりまで伸ばす。
もう少し、もうちょっと……よし、どうにか手すりを掴むことはできたが、もう後戻りはできない。
やるしかない。
股を大きく開き、精一杯伸ばしたつま先で隣の足場を探る。親指に足場の感触が伝わる。
手すりを握った右手に思いっきり握力を込める。あとは重心を右側に移動させ、左手を離すと同時に左つま先を足場に着地させればいい。
幽霊はすでに自分の部屋のベランダで両手を握り締め、ガンバレ、ガンバレと声援を送っている。
腕が痺れてきた。もう考えている暇はない。スパイダーマンになりきった俺は、カウントした。

スリー・ツー・ワン・ゴ―!

ウァ~~~!!

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