夜のお伽噺

アルのオリジナル小説置き場です

ひと夏の経験 1

今年の夏は異常な豪雨で、各地で災害が相次いでいますが、空梅雨だった東京はうだるような猛暑が続いています。
昨年の夏はどうだったか思い返してみましたが、社会人一年目の俺は仕事に忙殺され、曖昧な記憶しか残っていません。
それでもちょうど一年前の夏、自分の身に起きたことは忘れることはありません。
奇怪な経験は生涯忘れることはないでしょう。


昨年の春、ある医療機具の商社に入社した俺は、資料の詰まった分厚いビジネスバッグを提げ、ベテラン先輩と二人三脚で得意先の病院へ営業に通いはじめました。
顧客のドクターにもいろいろな方がいて、こちらが恐縮するほど腰の低いドクターがいるかと思えば、上から目線で威張り散らすドクターもいます。
ドクターの一言で購入が決まることがほとんどですから、対応には神経を非常に使います。
ストレスと疲れが溜まっていましたが、入社して半年も満たない若造が弱音を吐くわけにはいきません。

盛夏を迎えたこの時期、ドクターはどなたも仕事柄、夏季休暇を交代で取り、面会のスケジュールを組むのに苦労します。
どうにか面会の約束をとりつけても、思わぬ急患にぶつかり何時間も待たされた挙句、キャンセルされたこともあります。
そのたびに腹を立てていたのでは営業職は務まらないことは分かっていましたが、なかなか学生気分の抜けない俺には、無駄な骨折りに思えてなりませんでした。

その日も夜遅く、徒労に終わった営業に、重い身体を引きずるようにして笹塚のワンルームマンションに帰宅した俺は、スーツを脱ぎ捨てベッドに倒れ込んだ瞬間、瞼が落ちました。
どのくらい経ったのでしょうか。エアコンの冷風が止まり、寝苦しさに薄目を開けると、ぼやけた視界の隅に異様なものが見えたような気がしました。
全身が強張りました。
――足?
真っ白な素足が二本並んでいます。男の足だとすぐに分かりました。
「泥棒?」
俺は咄嗟に武器にもならない枕を鷲掴み、跳ね起きました。足を見上げると部屋の隅に男がひとり、俺を見下ろしています。
Tシャツにジーンズ姿で俺と同年代の青年です。
一体どこから入ってきたのか……ドアに鍵を掛けたことは間違いありません。

「だ、だれ?」
恐怖で声が引きつります。
「……」
返事はありません。
見間違えではないのなら、身体が半分透き通っています。
「誰?――まさか幽霊?」
ドラマの台詞と思いつつ、聞かざるをえません。幽霊の知識はありませんが、本物だったら返事などしないだろうと思いました。
「そうだよ。見えるの?」
男はゆっくりと頷き返したのです。

――いまなんて言った?そうだよ?そうだよ、見えるのかって?
幽霊を見たのは初めてですが、幽霊話はいろいろ知っています。でも「そうだよ」と返事を返す幽霊がいるとは……。
俺はただ呆然と半分透き通っている男を見詰めます。男は悄然と立ち、顔は確かに幽霊だけあって、無念そうに見えますが、よく見ると怖いというよりは、何だかおどおどした情けない顔つきです。
俺は怯むことなく幽霊を睨みつけました。
「睨むことないのに……」
はぁ?
怒りで恐怖心が吹き飛びました。
「残業で疲れているのに、夜中に起こされた身にもなってみろ」
「ごめんなさい。起こして悪かったです。でもどうしても助けて欲しい」
素直に謝った幽霊は、こともあろうに俺に要求してきました。
「助けろだと?」
「一生のお願い……一生と言ってももうないけど」
「左隣のオヤジには見えなくて、右隣のあなたの部屋に入ったけど、本当に見える?」
「見えますけど、隣って、まさか、あなたお隣さんですか?」
「よかった、よかったよ」
幽霊はほっとしたように表情をくずしました。


幽霊の正体は分かりました。幽霊がお隣さんと分かれば無下にすることはできません。
遠い親戚より近くの他人と言うではありませんか、生前どこかで顔を合わせ、世話になっているかもしれません。
「どうして幽霊に?」
馬鹿げた問だと思いながらも聞かずにはいられません。
「お弁当買いに行く途中、ものすっごく頭が痛くなって、意識が無くなったみたい。ここ一週間、体調が良くなかったんだけど、まさか、くも膜下出血だったとは思わなかった」
「救急車で新宿の病院に運ばれて、緊急手術を受けても意識が戻らないようで……」
「ということは、正確にはまだお亡くなりになっていない?」
「厳密にはそうかもしれないけど……」
「それなのに幽霊になって、俺の部屋に来たとは。よく聞くではありませんか、現世に未練があって亡くなった人が幽霊になると。
あなたもやっぱり?」
「ええ、私の場合、未練というか後始末がどうしても気になって、死に切れなくて。必死で病院から抜け出してきました」
幽霊の必死もないものである。

「幽霊になってまで頼みってどうゆうことですか?ことの次第によってはお断りしますが」
「実は部屋を片づけてほしいのです。幽霊になってはじめて気付いたのですが、物が動かせなくて」
一緒に死んでくれと頼まれなかったことに安堵した俺は、部屋の片づけぐらいなら頼みを聞いてやってもいいかなと思いました。
下手に断って後々まで祟られたら困ります。
なにせ相手は幽霊ですから。

「分かりました。それでいつまでに?」
「今すぐ」
「えっ、今すぐ?」
「はい。すぐに戻るつもりで、倒れたときの所持品は部屋の鍵と小銭入れだけで、私は身元不明者になっています。
幸運にもスマホは充電切れで、部屋に置いてあります」
幽霊の口ぶりは、すぐに自分の身元が分からないことを望んでいるようだった。
「病院には警察官も来ていましたから、無断欠勤が続けば、いずれ身元は判明するでしょ、その前にあなたに片づけてもらいたいと」
幽霊とはいえ相手がお隣さんだけに安請け合いをしてしまったが、とんでもない犯罪に巻き込まれてはかなわない、不安がよぎった。
「ご心配なく、犯罪にかかわるようなものは何もありません。あなたを騙すようなことはしませんから」
さすがに幽霊、俺の不安を読み取っていた。

しょうがないと舌打ちし、サンダルを突っかけ隣に向かおうとする俺の背後で、幽霊の申し訳なさそうな声に振り向いた。
「あの……」
「なんでしょう?」
「私の部屋のドアは鍵が掛かっいて入れません。鍵は病院です」
「病院まで取りに行けと?」
「とんでもない、そんなことしたら身元がバレてしまいます」
「それじゃ、どうやって入れと?」
「あっちから」
幽霊はベランダを指さしました。


つづく。


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