夜のお伽噺

アルのオリジナル小説置き場です

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

チコ 12

手土産のたい焼きから、予期せぬ話が展開するとはチコは思ってもいなかったが、
芳村はたい焼きを見た妙子が昔話を語ることは当然予想していただろう。
それを承知の上で芳村は、たい焼きを持たせたのだとチコは薄々感じ始めていた。
今まで知ることのなかった芳村と妙子の二人の関係のいきさつを妙子に語らせること。
芳村の思惑は何なのだろう。
今日妙子の自宅を訪問した真の目的、妙子に封筒を届けること。
郵送ではなく直接届けることの意味。封筒の中身は何なのか。チコは気になった。

妙子の口から『命令』という言葉が飛び出し、芳村との関係の原点を図らずも知ったチコはお茶を一口啜り、
妙子の告白を促した。
「それで妙子さんは、芳村の言ったとおりに株を処分したのですか」
「迷ったわ。株価は上昇トレンドに入っていたから」
「でもね、投資格言に『迷わば売れ』というのがあるの。嫌な会社と縁切りしたかったし、
芳村さんの言葉が引っ掛かって、すべて処分したわ」

「退職してしばらくは映画を観たりひとりで旅に出たりして、悠々自適な生活をおくっていたの」
「新しいお勤め先を見つけなきゃという気持ちはあったけど、会社勤めはもういいかなっとも思えて、
近所のスーパーにパートに出たの」
「自分の身の丈に合った職場と言ったら語弊があるけれど、生活感あふれる生き生きとした
スーパーのお仕事は楽しかったわ」
「若かったから、いろいろな人に口説かれたりもしたしね」
「でも心のどこかで芳村さんのことが忘れられなかったのも事実だったわ
。だって株の暴落を見越したように手仕舞いするって言っていたから」


「翌年のいつ頃だったかしら……そうアパートの近所のお宅に桐の木があって、
白い花の甘い香りが道まで広がっていた頃よ」
「突然芳村さんから電話が掛かってきたの。自宅の電話番号は教えた覚えはなかったから驚いたわ」
「今日スーパーは定休日だろって言うし、気味が悪くて尋ねたら、電話口で笑っていたような気がする。
有無を言わせぬ口調でこれから出てこいって言うのよ」


「赤坂がまだオフィイスビルが立ち並ぶ前のことよ」
「駅で待ち合わせて、お茶をいただいて、見せたいものがあるって」
「ナイトクラブのコルドンブルーを通り過ぎて赤坂の外れ、民家が立ち並んだ先の
二階家に連れていかれたわ」
「一階がしもた屋で脇の狭い階段を上って二階のドアの鍵を開けて。ちょっと怖くて、
入り口で立ちすくんだ私に手招きして」
「営業をやめたバーだったの。芳村さん私に任せるって言ったの」
「意味が分からなくて呆気にとられたわ。この人少しおかしいと思った。もちろんその場でお断りしたわ」

「でも妙子さん、オーケーしたから……」
「それからもう、毎日のように口説かれて」
「今思い出しても恥ずかしくて赤面しちゃうけど、上手く乗せられたわ」
「言いなりになるのも悔しいから条件を出したの。私の都合でいつ辞めてもいいかってね」
「それとね、私も突っ張っていたのね、お家賃も決めてもらったわ」
「芳村さん苦笑いして承知したわ。私の好きなようにしていいと。でも結局、どっぷり浸かっちゃったのよね。
水が合ったの」

「どんなお店だったのですか」
「お店の名前は今と同じベラミ。」
「名付けたのは芳村さんで、どこにでもあるような平凡な名前ねと思ったけれど、
どこの街にもあるような名前だからこそいいって
――後々芳村さんが言っていた意味が分かったわ」

「私と女の子一人と男性一人、三人でスタートしたの」
「二人とも芳村さんが連れてきたの。可愛いい女の子で、タレントになるのが夢だって。
男性はチコちゃんも知っている窪田よ」
「えっ、窪田さんですか」
「そうなのよ。だから私、芳村さんと同じくらい窪田とも付き合いが長いのよ」
「窪田のご実家は水商売やっていて子供の頃から見ていたのね、この世界の一から十まで熟知していたわ。
素人の私は彼に言われるまま。いろいろ教えられたわ」

「開店するとすぐにお客様がいらっしゃってくれて。大半は芳村さんのビジネス関係の方たちでね」
「芳村さんの会社の接待なの。同業の不動産会社にはじまって、今では信じられないけど取引銀行、
お役所の職員にテレビか雑誌で顔を見た人もいたわ」
「公に接待できない人たち。だからどこの店で接待を受けたのか外部の人には分からない方がいいのよね。
赤坂の暗がりにある平凡な名前の目立たないバー」
「支払はすべて芳村さんの会社持ちだけど、窪田からお店が芳村さんと関係があることは一切口外するなと言われたわ。
芳村さんなりの計算があったのね」

「どうにか軌道に乗って、芳村さんの事業がまた大きくなったと思ったわ」
「窪田の連れてきた女の子を増やして――その子がとびっきりの美人で、カウンターに立たせると席がすぐ埋まっちゃって」
「私は見ての通りのチビでブスだし、容姿ではかなわないから、会社員時代を思い出して接客に努めたわ」

「でもね、お店は順調だったわけじゃないの」
「芳村さんの事業が大きくなるにつれ接待の回数は少なくなってね。
取引先と立場が逆転しはじめたのね」
「それに時代も変わったのよ。接待に関係なく有益な情報は勢いのある会社にいの一番に届けられるのは
ビジネスでは当たり前のこと、証券会社でも上得意にはそうだったもの」
「不景気風も強くなってダブルパンチ」
「所詮素人のママさん稼業だったと辞めようと思ったけれど、お店の人たちに迷惑掛けられない。
思い余って窪田に相談したの」
「窪田の言葉は今でも忘れられない」
「芳村に負けることになりますよ、いいのですかって言われた……
窪田、私の気持ちすべてを分かっていたのね。
芳村さんに負けたくなかったのよ。でも現実は厳しくて落ち込んだわ」
妙子は当時を振り返るように肩を落とした。


「しばらくして店じまいしていたら、ひょっこり芳村さんが来たの」
「帳簿を閉じた窪田はすぐに帰ったわ。お酒を用意しようとしたら、いらないって」
「カウンターで向き合った芳村さん開口一番、俺はその口紅の色は嫌いだって怒って、
カウンターに小さな紙袋を置いたの。
顎をしゃくって開けろって。舶来の口紅が入っていたの。塗り直せって」
「洗面所に飛び込んで鏡に向かって、出てきたら芳村さん喜んでくれて、嬉しそうな顔して、
これから一週間箱根に行くぞって」
「仕事は休暇だって言うし、急にそんなこと言われたって無理よ。お店が心配だから駄目って、
そしたら窪田に任せたって。
その晩強引に連れ出されたの」

「そのまま強羅の温泉宿で本当に一週間、二人だけで過ごしたの。何もかも忘れて……
愚痴の一つか二つは言ったかもしれないけれど、芳村さん頷くだけだった気がする」
「その一週間で私、本心では芳村さんに負けたくないと思いながら、本当は芳村さんが好きだって……
芳村さんの喜びが私の喜びだと気付いたの――いえ、芳村さんにそう仕向けられた、馴らされたのかもしれない……」
「一週間ぶりにお店に出たらお店の子たちが心配してくれてね」
「私がいなくてお客様が残念がっていたって言うのよ。嬉しかった。よし、泣き言言わないで頑張るって腹を括ったわ」


「芳村さんがそこを再開発することになって、私も商売の欲があって、そのことを察したようにね
窪田が銀座のお店の話を持ってきたの」
「居抜きですぐにでも営業できるお店だったわ。でもさすが銀座。お家賃もそうだけれど、諸々の費用が高くてね、
二の足を踏んだわ」
「でも勝負してみたい。水商売に融資してくれるとこなんてないじゃない」
「そしたら窪田が芳村さんに相談したらどうかと持ちかけたの。それは絶対に嫌だと断ったわ」
「芳村さんの世話にはならない。水商売女の意地よ」

「困った顔した窪田、ため息ついてね、それじゃここに居座っちゃいましょって言ったの」
「どういうことか聞いたら、私がお店に住み込んで立ち退きを拒否しなさいって。
それで芳村さんの会社から立ち退き料をせしめましょうって真剣な顔して言ったのよ」
「お店の決算書見せれば、営業補償も取れるって。笑っちゃうわよね」
「自分のお店から立ち退き料を請求されるなんて思いもよらなかったでしょうにね。
窪田が交渉役を買って出てくれたわ」

「それで妙子さん、本当に寝泊まりしたのですか」
「したわよ。窪田ご丁寧にドアの鍵まで取り替えてね。憧れの赤坂住まいよ、楽しかったわ」
「ちょうど二か月居座ったら、痺れを切らした芳村さん折れたわ。もちろんそれだけじゃ足りなかったけれど」


「思い出してもいろいろなことがあった……」
「楽しかったことも辛かったことも言えないようなことも……不条理なことで泣いたことも……
いつもそばにいてくれた窪田は優しいの、一緒に涙を浮かべてくれて」

「チコちゃんも知っているわよね。窪田は女の子を大切にするの」
「自分のことを後回しにしても女の子の面倒を見てくれているわ。何度彼に助けてもらったか、
彼がいなかったら今の私はないわ」
「でも窪田、あいつ、銀座にお店を開いたとき、私はじめて知ったのだけど、
赤坂のお店を開店した当初から芳村さんの会社の社員だったのよ」
「言葉は悪いけど、私、窪田にまんまとだまされていたの」
「窪田は本当に狸だわ――窪田には定年がないと芳村さん言っていたわ。自分から退職しない限りって」
「でもチコちゃん、窪田はずっとお店からもちゃんとお給料取っていたわよ」


「あっ、私ばかりおしゃべりしちゃって。チコちゃんつまらない話でごめんね」
「いえ、そんなことありません」
「あら、もうこんな時間」
ソファーの上で居住まいを正すチコを引き留めるように妙子は言葉を繋げた。
「チコちゃん迷惑ついでにお夕飯一緒にたべよう」
「そうだ、お鍋にしましょう。ひとりでお鍋するの寂しいのよ。とっておきのアウスレーゼも開けましょうね」


つづく。


にほんブログ村 BL・GL・TLブログ BL短編小説へ
にほんブログ村
スポンサーサイト

チコ 11

このところ芳村の様子がおかしいとチコは感じていた。新年から多忙なスケジュールをこなし、
賀詞交歓会にもすべて出席し、チコの知る限りではビジネス上の問題は無いように思えたが、
デスクに座り腕を組み、宙を見つめ何事か思案する様子を度々目にしていた。
さらにチコの心配に拍車を掛けたのは、ホテルドクターの羽生医師の診療室に足蹴に通うことだった。
思い余ってチコは芳村の健康を心配し尋ねたが、曖昧な返答を繰り返す芳村に、チコはそれ以上聞くことはできなかった。

この冬はじめて、東京も最低気温が0度を記録した寒空の週末、日課である芳村の身支度を手伝ったチコは、妙子の自宅に行くように命じられた。
「チコ、これを妙子に渡してくれ」
芳村はデスクの抽斗から白い封筒を取り出し、チコに手渡した。
何か大事な書類が入っているのだろうか、受け取った封筒は糊付けしてあった。
「妙子の好きな白い花……いや、花はだめだ。甘いものを手土産に買ってくれ」
「甘い物ですか。チョコレートでしょうか?」
「チョコではなく――たい焼きを買ってくれ」
「たい焼きですか……」
芳村から意外な物を指定され、チコは驚いた。
「妙子の好物なんだ。悪いが人形町の甘酒横丁に寄ってから行ってくれ。あそこのたい焼きが妙子のお気に入りだから」
「チコ、クルマは置いていけ。タクシーで行け。それと今日はもう、戻ってこなくていい」
「分かりました」
妙子としばらく会うことがなかったチコの気持ちを察したように芳村は命じた。
クルマの鍵をデスクに置いたチコは、普段運転しない芳村がクルマを使うのだろうか、珍しいことがあるものだと訝った。


白いタートルのニットにストレッチパンツ姿のラフな部屋着でドアを開けた妙子は、チコの顔を見るなり笑みを浮かべ手を引き、
リビングに招き入れた。
間接照明だけのリビングルーム、フランス製のソファー、壁に掛けられた絵はエッチングに替わっていたが、
芳村が突き付けた難題に困苦するチコに、救いの手を差し伸べてくれた妙子の部屋に通っていたあの頃と変わっていなかった。額の下に、バカラの花入れに白い蘭の花が優雅な弧を描き、白い花が好きだと言った芳村の言葉を思い出した。

「妙子さんご無沙汰しています」
「本当にご無沙汰。最近お店にも顔を出してくれないし、連絡もよこさないだから。
芳村さんに私と会っちゃいけないと言われているんでしょ、もう!」
頬を大袈裟に膨らませ、少女のように拗ねてみせた。
「ち、ちがいます。芳村はそんなこと一言も……ご承知のように芳村多忙を極めて、夜に出掛けることもありません」
「そう……じゃチコちゃん毎晩可愛がってもらっているのね」
「そんなこと……」
妙子は顔を赤らめ困惑するチコをからかった。
「妙子さん、今日お邪魔したのは芳村にこれをお渡しするようにと託ってきました」
チコは鞄から封筒を取り出しテーブルの上に置いた。
「それと、これは芳村から直々に頼まれて、たい焼きを買ってきました」
封筒を見るなり妙子の表情が一瞬曇ったように見えたが、たい焼きと聞いた妙子の大喜びする様子を見たチコは、
自分の思い違いだと思った。

「私これ大好物なの。お茶入れるから、一緒に食べよう」
お茶の支度に立った妙子は、なぜ芳村が今日チコに、あのたい焼きを持たせたのか、なぜあえて今日なのか、
今日だからなのか……芳村の考えに思いあぐねた妙子はチコに背を向け何気な口調をよそおい話しかけた。
「チコちゃん、今日時間は?」
「大丈夫です。今日は特別用事がないからホテルに戻らなくていいと言われました。
それに芳村、珍しくクルマを使うようで、タクシーで行けと言われました。妙子さん、出勤は三時ですか?」
「ううん、今日はちょっとズル休み。チコちゃんが来てくれたから」
「えっ、僕が来たからですか?」
「嘘よ。お休みは前々から決めていたの。今夜は順子さんに任せたの」
髪をアップに結い目鼻立ちがはっきりしたチーママ順子さんをチコは思い浮かべた。
妙子さんに劣らず華がある印象が記憶に残っていた。

「じゃ今日はゆっくりできるね。本当にしばらくぶりね、チコちゃんとお話しするの」
芳村との付き合いが長い妙子はチコからの話を聞き、芳村の思惑を理解した。
それは妙子への思い遣りなのか、それとも残酷な慈悲なのか……
それを判断するのは妙子自身だと、芳村は何も知らないチコの口を借り言わせたのだ。
しかし、どちらにしても今日一日、それとも明日の朝までチコを傍における許しを得た妙子は、芳村に感謝した。

たい焼きに両手を合わせ、お辞儀した妙子は頭からかぶりついた。
「おいしい!昔と変わらない。芳村さんに言われたわ。たい焼きは頭から食べろって。
芳村さん覚えていてくれたんだ。ここのたい焼きには昔ね大変お世話になったのよ」
「お世話にですか?」
「芳村さんから聞いていない?」
「いえ、なにも……今日はじめて妙子さんの好物だからと言われました」
「そう……芳村さんらしい。あの人ご自分のことほとんどしゃべらないから」
妙子の言うとおり、プライベートなことを話すことはない芳村に、チコもあえて聞くこともなかった。

「私ね、この世界、水商売に入る前、兜町の証券会社にお勤めしていたの。
もうウン十年も前のことだけど――二流の短大出の小娘がいきなり本店勤務に採用されて、ちょっと鼻も高かったけど、
希望に溢れていていたわ」
「一通りの証券業務を覚えて、配属されたのは幾つもある営業部のひとつでね、仕事はお得意様へのあいさつ回りと新規の顧客を取ること」
「新人の女子なんか、なかなか相手にしてくれなくて、とにかく顔と名前を憶えてもらわなくちゃ商売にならないから、
名刺に一言メッセージを書いたり、値上がり業種を書き込んだりいろいろしたわ」
はじめて聞く妙子の過去に、チコは大いに興味を惹かれた。たい焼きを頬張る口が止まっていた。

「少しずつ話を聞いてくれるお客様が付いて、取引してもらえることになって、タオルとか石鹸とか会社が支給する粗品と一緒に、自分のポケットマネーでたい焼きを持って行ったの」
「お店はどうにか歩いてでも行ける距離だったし、なにより目出鯛って縁起を担いだのよ。どのお客様も喜んでくれたわ」
「たい焼きが縁で新規のお客様を紹介していただいたりして――まあ時代もよかったんだけど、女子社員では営業成績でトップになって、上得意の顧客担当にまわされたの」

「上司と一緒に訪問するんだけど、早く言えば上司の鞄持ちね」
「相手が上客だけに緊張したわ。粗相があってはいけないし、かと言って売り込まなければいけない。今思い出しても神経を使った時だったわ」
「でもね、上司は苦笑いしていたけれど、ここでも手土産のたい焼きの効果はバッグンで、高額の取引をしてもらえたわ」
妙子は遠い過去を懐かしむような眼差しをたい焼きに向けた。

「小舟町に三階建てのビルがあって、今はもう立派なビルに替わっているけど。その三階に芳村さんが不動産の事務所を構えていたの」
「当時芳村さんは兜町界隈で、個人投資家としてちょっと有名人だったの。でもうちとは、まったく取引が無くてね」
「あの頃手数料はどの証券会社も同じだったから仕方がないだけれど。それでも若気の至りというか、どうにか取引をしてもらおうと営業に出掛けたの」

「芳村さんと男性二人と女性一人の小さな事務所で、入り口のカウンターで挨拶しても、誰も振り向きもしないのよ」
「私もトップセールスの意地があって毎日行ったわ。名刺に推奨銘柄とか、書くことが無い時は明日の天気予報とか……必死だった」
「何ヶ月通ったかしら、ある時カウンターの下に丸い屑籠が出してあって、私の名刺が全部捨てられていたの。絶句したわ」
「涙の溢れるのを必死で我慢しても、もう駄目だ、諦めようと思ったわ。そしたらね、事務所の奥に座っていた芳村さんが、声を掛けてきたの。その時芳村さんの声をはじめて聞いたわ」

「忘れもしないわ。『西野さん、あなたの役に立たない情報じゃなくて、たまにはたい焼き持ってきてよ。あなた、たい焼き娘って言われているんでしょ』って笑いながら言ったのよ」
「名前を憶えてもらったのは嬉しかったわ。だから次の日後場が終わると、急いで会社の自転車でたい焼き買って届けたの」
「ありがとうのひと言もなかったけど、こっちも女の意地ね、日経平均が上がった日には必ず届けたわ。お疲れ様ですって頭下げてね」

「しばらくたって、また届けに行ったら、怖い顔した芳村さんが席を立ってカウンターに出てきたの。怒鳴られると思ったわ、観念したわ」
「そしたらね、何と言ったと思う――『西野さん、うちが四人だから一人で二個、八個と計算しているんだろうけど、それじゃ八方ふさがりだ。今度から五個にしてくれ、ご縁があるようにとな。口座作るから明日書類持ってきな』って、嬉しくて泣いたわ。人前で泣いたのはじめてだった……」
目尻を指先で拭う妙子に、チコまでも目頭を熱くさせていた。

「でもね、それからが大変だったの」
「芳村さんとの取引はどんどん大きくなって、会社から金一封なんか頂いたりして、順風満帆だったんだけど、今度は同僚の男性社員から苛めに遇ったわ」
「チコちゃんなら分かるかしら、男の嫉妬ね」
「いろんなこと陰で言われて、ここは男性社会なんだとその時やっと気付いたわ。証券会社の女子社員は二、三年務めて寿退社していくところなの」
「二十七歳になった私、もう立派なお局よ。仕事一途で恋愛する暇もなくてさ、何だかやる気が無くなっちゃって……でも三十まで頑張ろうって」


「平成になった年よ。もう我慢の限界で、三月に退職することにしたの」
「株価は一本調子に上がって、会社はこの世の春を謳歌していて、小娘一人辞めたってどうってことない雰囲気だったわ」
「すべてのお得意様に退職のご挨拶に行って、残念がってくれたお客様に頭を下げて」
「別の証券会社から誘いもあったけど、もうこりごり。もちろん芳村さんのところにもご挨拶に伺ったわ」
「芳村さん気のない返事して、これからどうするのって聞くから、いい人見つけて結婚しますなんて、しゃあしゃあ言っちゃってね」
「正直言っちゃうと、ちょっと惹かれるところがあったの、芳村さんに。でもいつも気難し顔して他人を寄せ付けないところがあって、今もそうよねチコちゃん」
可笑しさを咳払いで誤魔化したチコは、何度も小さく頷いた。

「芳村さんその時言ったの」
「年内早いうちに株取引から手を引くって。芳村さんの儲けを知っていたから、唖然としたら、なにも君が辞めるからじゃない、他の会社のもすべてだ。勘違いするなって怒鳴られたわ」
「なぜですかって聞いら、次の事業に十分な資金の目途が立ったって。でも不思議。私の持っている自社株も、退職を機に全部処分しろって、命令されたわ」


つづく。


にほんブログ村 BL・GL・TLブログ BL短編小説へ
にほんブログ村

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。