夜のお伽噺

アルのオリジナル小説置き場です

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

レクターちゃん 10話


ぼんやりと壁に下がるカレンダーを眺めていました。美大に通う息子にと母が正月に帰省したおりに持たせてくれた静物画のカレンダーです。目で日付を戻ると、あれから四日たっていました。
突然姿を消してしまった阿川さんのことを片時も忘れることなどありませんでしたが、進路も決まらぬ不安と不満に音を上げそうになっていた矢先、連絡を予感していたわけではないし、心の準備ができていたわけでもありませんでした。

「遊びにいらっしゃい」という言葉は、普通に考えると社交辞令以外の何ものでもないはずでしたが、「うかがいます」という私の返事は、男と阿川さんの親密な関係の間では、自分の無力さを思い知らされ、蜜月が終わった現実を受け入れる意味合いが濃いものでした。嫉妬心から、阿川さんが男に抱きすくめられている幻想に迷い込んだ私に、諦めと未練が日が経つほどに自分自身に迫ってきました。
今週の土曜日――すべての経緯を知る携帯の主、一之瀬先生に会う覚悟を決めました。
それでも、その日が来ると私はまるで薬の切れた病人のように苦悶せざるをえませんでした。


深大寺に近い昔の武蔵野のなごりが偲ばれる屋敷の周りを古い大きな樹が囲み、立派な門構え、白壁に瓦屋根、お屋敷と呼べるほどの日本家屋が一之瀬先生のご自宅でした。
インターフォンに応えて私を迎え出たのは、(その時はまだ名前を知りませんでしたが)マツさんという屋敷に長く仕えるお手伝いさんでした。先生の客人とはいえ上がりかまちに膝をつき、孫のような私の前にスリッパを揃え、先に立って廊下を進みました。通されたのは瀟洒な日本庭園を見渡す応接間でした。
「藍澤君よく来てくれました」
「本日はお招きありがとうございます」
「少し痩せましたか?」
「――ええ…」
就職活動に精を出す仲間からは嘲笑されていましたが、伸びた髪に櫛を入れ無精ひげを剃り、少しこけた頬から私の苦悩を読み取った先生の顔には憐れみの表情が浮かんでしました。私は開口一番、阿川さんの消息を尋ねました。
「先生、阿川さんはこちらに居るのですか?」
「まあ、落ち着きなさい。君には残念だが、ここにはいない」
私は恋敵を睨むような険しい眼差しを先生に向けましたが、阿川さんが居ないこと知ると気落ちし、先生に救いを求める誘惑に負けていました。

「大学の仲間に、付き合っている子はいるのか聞かれて、いると答えました。どんな子?ときくから、年上で、聡明で、美しくて、よき理解者で、抱擁力があって…でも突然僕の前から消えてしまったと…」
「仲間はそんな子はいないって、そんな男の理想像のような子はいないって。お前妄想が過ぎると笑われて…」
「先生――阿川さんは、阿川さんはどこに行ってしまったのですか?」
溜息を吐きソファーに深く座りなおした先生は、落ち着きを無くした私に言葉を選ぶように語りました。
「阿川君の行動は戸惑うばかりだったと思います。理解できなかったと思います。非常識ともいえるかもしれん――でも阿川君にすればそれしかなかったのかと…」
「――それしかなかった?」
「彼は夢見ていた。二つの夢を」
「――夢ですか…」
「ひとつは、藍澤君、君との夢。もうひとつは自分の夢――しかし誰も二つの夢を同時に見ることは難しい。たとえ器用な阿川君でも…」


君に見せたいものがあると立ち上がった先生は、廊下の突き当たりにある先生の書斎に私を案内しました。鳳凰の絵柄をあしらった段通が敷きつめられ、黒檀の机と椅子が置かれた西洋間でした。先生は書棚に囲まれた壁に飾られた額を示しました。
それは――昔の中国の農村風景を描写した、阿川さんの居間に飾られていた切り絵と瓜二つのものでした。
「確かこの切り絵は…」
「阿川君の部屋にあるものと同じ切り絵です。作者は阿川君本人です」
「えっ、阿川さんが!」
はじめて阿川さんの部屋を訪れたとき、精密な出来栄えに見惚れた切り絵です。自分が作ったとはおくびにも出すことはなかった阿川さんに言葉を失いました。
「阿川君はこういった細かな、根気のいる制作に秀でた才能を持っています。彼は小さい頃から手先が器用で、絵を描くことも好きだったと」

「随分前になります。阿川君がまだ学生だった頃のことです。以前この部屋に飾ってあった切り絵、粗い細工の切り絵でしたが、彼は大層興味が惹かれたようで、しばらく貸してくれと――それから二、三ヶ月は経った頃でしょうか、完成したこの切り絵を持ってきました。彼は模倣しただけだと謙遜していましたが、私は彼の才能に驚きました」
「専門に勉強したらどうかと勧めましたが、現実的にそれは無理だと。それでも美術への興味は捨てられないようでした」
「何の縁がそうさせたのか、社会人になった彼は君の通う美大職員に臨時採用されました。美術、芸術を身近に触れる機会を得た彼は、美大生の創作へ真剣なの取り組みにも啓発されたようでした」

「預かっている作品があります。お見せしましょう」
西日の入り込んだ窓にカーテンを閉め、先生は書棚からF6サイズの画帳を取り出し、机の上に広げました。
パラフィン紙に挟まれたどこか見知った風景、美大の校舎、府中のケヤキ並木の鬱蒼とした葉陰、平石を積み上げた築地塀が続く深大寺の屋敷。着物の柄のような雲取りに藤の房と七宝と亀甲の古典柄の切り絵。残りの二枚は趣がまったく異なる、微細に接写した豊満な胸を包む黒いレースのブラジャー、股間を隠すレースの下着をトリミングした切り絵です。
阿川さんは独り黙々と切り絵の表現を模索しているようでした。

作品を凝視し出来栄えに感嘆した私は阿川さんの夢を理解しました。阿川さんは夢を追って、夢を掴むために旅立ってしまったことを悟りました。
それは私が見る夢でもあることは違いありません。描き夢を追い続けろと切り絵は無言で訴えかけてきました。胸に灯ったおぼろげな光明が、私の荒んでた心を穏やかなものにしていきました。

続きを読む
スポンサーサイト

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。