夜のお伽噺

アルのオリジナル小説置き場です

無人の島


ここに一枚の写真がある。
角が折れ、何度も手に取った跡が、黄ばみ染みになってしまっている。子供の頃に遊んだ、日光写真のように写真全体がぼんやりと霞んでいるが、艶めかしい夜のドレスを纏い、科を作る弥生さんの写真だ。
わずかに膝頭に届いている短い裾の下は、真っ白な素足が斜めに伸び、胸から腰のまわりを覆う衣のからは、しなやかな肌と蠱惑的なレースの下着が透けて見える。
あれから二十年以上も過ぎ、私は弥生さんの知らない女性と結婚し、二人の子供の父親になっているのに、弥生さんの何かを思い出すたびに、今でも切ない気持になる。美しい笑顔、柔らかな手、交わした会話、弥生さんと過ごした、余りにも短い時間を懐かしく思い出してしまう。
確かに写真に写る弥生さんは存在していた。爪まで美しく磨かれた白く細い手に握ぎられている物が何よりの証だ。
もっとも、あの夏、私が経験したものが夢でなく、すべてが現実だったと仮定すればの話であるが・・・


私は大学に入ったのを契機に、どうしても一人暮らしがしたかった。自宅からも通学は可能だったが、父の再婚話に私は独立を決心した。若くして病死した母の代わりに、兄と私を男手ひとつで育ててくれたことは今でも感謝している。
苦労をかけた父に、残りの人生のスタートを後押ししてあげたかった。
私は高円寺に安いアパートを探して移り住んだ。日当たりの悪い場所にあった私の部屋は、昼でも薄暗く、夜ともなると路地裏の闇に溶け合ってしまうような暗さだったが、一人暮らしが新鮮で、気にも留めることはなかった。

あれは、お盆の休みで、アパートの住人が帰省し、私一人だけが残っていた夜のことだった。アパート近くの環七を通り過ぎる定期便のトラックも疎らで、何時になく静かな夜だった。カタカタと首を振る扇風機が、じっとりと湿った夏の夜気を払っていた。

突然のドアのノックが転た寝する私を起こした。
今時分誰だろうと、訝かしげに首をひねりドアを開けると、なぜか見知らぬ男が立っていた。歳の頃は私よりは幾つか年上のようで、顔色は白磁のように白く、赤く艶やかな唇に目が留まった。女性と見まがうばかりの美青年で、息をのむほどの何かが、彼の華奢な身体から放たれていた。
「夜分、突然にすみません・・・真上に住んでいる矢野といいます。少しだけお邪魔してもいいでしょうか?」
彼は何度も廊下を振り向き、あきらかに脅えた様子で声を震わせ、柔らかそうな前髪がかかった二重瞼の目が切羽詰ったように私に縋った。事が尋常でないことは、彼が裸足だったことですぐに分かった。
一人住まいを始めたばかりで世間にも疎かった私は後先のことも考えずに、困ったときはお互い様と、同じアパートに住むよしみでもあり、彼を部屋に招き入れた。
「散らかっていますが、どうぞ」
彼はもう一度、後ろを振り返ると音を立てないように、急いでドアを閉め、窓際に身を隠し、外の様子をうかがっていた。

すぐに誰かがアパートの階段を駆け上がり、ドアを叩く音が聞こえ、私は急いで明りを消した。彼は部屋の隅で膝を抱えて息を殺していた。ドアノブをがちゃがちゃと回し、廊下をうろつく人の気配に、私は無言で天井を見詰めた。
どのくらい経っただろうか、重い足取りで階段を下りる足音に、私は薄地のカーテンの隙間から網戸越しに外をのぞき見た。
体格のよい男の黒い影が、しばらくアパートの二階を見詰めていたが、諦めたように暗い路地に消えていった。
「帰ったみたいです」
彼は人心地ついたように顔を上げ、汗で額に張り付いた前髪を掻き分け、潤んだ瞳を手で拭うと安堵の笑みを浮かべ、「ごめんなさい・・・」と掠れた声で頭を下げた。
その時私は、突然降って湧いた出来事が映画のワンシーンのように思え、困った人を助けたヒーロー気取りになっていた。
「もう少し、様子を見たほうがいいですよ。明りはつけないでおきます。冷たいものいれるから、一息入れてください」
私は立ち上がろうとする彼を制止し、冷蔵庫から麦茶を取り出した。

「僕は、S大に通う大野裕司です。ここには六月から住んで、新参者です」私は声をひそめて自己紹介した。
「私は矢野弥生といいます。ドレメに通っていて、ここにはもう二年になります」
「――ドレメ?」
「あっ、ドレスメークの略でドレメ」
「服を縫うのですか?」
「ええ。洋服をデザインして、生地を選んで、型紙を取って仕立てます。男のくせにと思うでしょ?」
「いや、そんなこと・・」私は彼の女性的な雰囲気は、目指す職業が影響しているのだとその時は納得した。
「クラスの男子は私ともう一人、二人だけ」
「それじゃ、さっきの人が?」彼が脅えて私の部屋に逃げ込んできた事情が知りたくて、やんわりと話を彼に振った。彼は両手で大事そうに握ったカップに視線を落とし、言いにくそうに首を横に振った。

「――いえ、あの人は・・・私が以前、夜のバイトしていた新宿のお店のお客さんです」
新宿、夜のバイト、店のお客、そして窓から見た男の姿から連想した、男の素性を頭の中でつなげ、とんでもない揉め事に巻き込まれたのではないかと、今更ながら悔やみ、恐る恐る彼に聞いた。
「ひょっとして、コレですか?」人差し指で、頬に縦線を引いた。
「えっ、違う、違う。ヤーさんじゃありません。普通のお勤めの人です。ごめんなさい。心配させちゃって、本当にごめんなさい」
情けない俄かヒーローに成り下がった私は、自嘲しながら胸を撫で下ろした。安堵した私は、彼と男との関係をそれ以上詮索することを避けた。

目の前で俯く矢野と名乗る美青年に興味が惹かれた私は、もうしばらく彼と話がしたくて、麦茶をカップに継ぎ足し、彼を引き止め、ラジカセに手を伸ばしてスイッチを押した。
ラジカセから流れた小さなピアノの音に、張り詰めていた矢野さんの表情が和らいでいくのが分かった。



キース・ジャレット『ラレーヌ』


「素敵な曲・・・」

「キース・ジャレットの『ラレーヌ』といいます。たぶん、恋人への想いを綴った曲だと思います。去年の秋に出たレコードで、今一番の僕のお気に入りです」
「もし、無人島のような誰もいない所へ行かなければならなくなって、好きなレコードを一枚だけ持っていっていいと言われたら、迷わずコレを持って行こうと決めています。まあ、ここは矢野さんもいて、無人島ではないけど・・・」
「――無人島かぁ・・・」
子供っぽい言い草に照れながら頭を掻いた私に、矢野さんは顔をほころばせた。
そして、カップを静にテーブルに置くと、何かに想いを馳せるように、窓の外に顔を向けた。新月の仄かな月明かりにふち取られた、美しい横顔に私は、胸のざわめきを覚えた。

「――好きでした」
「大好きだった・・・本気になっちゃった・・・」
月の雫のような一粒の涙が、声を震わせる矢野さんの頬に光った。
恋愛経験の無い私でも、人それぞれの恋愛の自由は分かっていたつもりだった。でも、目の前にいる矢野さんから、同性愛の失恋の告白を聞かされた私は、掛ける言葉が見つからなかった。

「矢野さん、恥ずかしながら、僕はこの歳まで人を好きになったことがありません。だから、失恋の本当の苦しみも知りません。
でも、どんなに愛し合っても、長い間には、お互いの心が見えなくなることもあると思います」
「――そうゆうことを乗り越えても、いつかは別れなければならない運命もあるのではないでしょうか・・・」
「――傷ついた心を癒してくれるのは、音楽であったり、歌であったりだと、僕は思っています」
「でも、大切なものを失くしてしまった時は、音楽なんて無力なものだとは分かっていますが・・・」

私は母が亡くなったときのことを思い出していた。やつれた母の命のともし火が、ゆっくりと消えていってしまったときのことを。
「だけど、時が経ち、悲しみが少し過ぎて、歌を口ずさんだり、音楽を聴いたりすることで、心を取り戻せるような気がします」
「だから僕は、無人島ではないですが、一人で生きていかなければならなくなったら、このピアノを聴いて、悲しみ、苦しみを乗り越えていこうと、決めていました」
「矢野さん、生意気言って・・許してください・・・」
私は、辛かった過去に感極まり、溢れる涙を堪えることが出来ませんでした。

矢野さんは、膝の上で握りしめていた僕の手にそっと手の平を重ね、赤くした瞳を僕に向け、うん、うん、と無言で頷き、僕の震えた肩を優しく包み、崩れるように畳の上で抱き合い、唇を重ねました。生まれて初めての抱擁と口付けに、全身が金縛りに遭ったように、身体を動かすことも、声さえも出すことすら出来ませんでした。
柔らかな唇が、ふっと離れ、立ち去りにくそうに何度も振り返り、何かを呟きましたが、私の耳に届くことはありませんでした。
音もなく部屋を出て行く矢野さんを目で追った私は、動かぬ腕を力ずくで伸ばし、力尽きた私は深い眠りに陥ってしまいました。






次の日、昼近くに目覚めた私は慌てて飛び起き、畳の上で寝てしまった軋む身体を擦り、はっきりしない意識の中で、昨夜の出来事を思い出した。小さなテーブルの上には、矢野さんに出した麦茶のカップが置かれていた。
矢野さんは確かにこの部屋にいたのです。夢でも幻でもなかったのです。矢野さんの華奢な身体と、唇の温もりが蘇り、私は部屋を飛び出し、矢野さんの部屋に向いました。ドアをノックし、ドアノブをまわしましたが、中からは、人の気配は感じられません。
私はドアの前で立ち竦み、昨夜矢野さんを追ってきた男と同じ行動を取ったことに、気恥ずかしさを覚え、部屋に戻りました。

消えてしまった矢野さんへの想いは募るばかりで、何も手に付かず、ひたすら矢野さんが戻ってくること待ちわび、窓辺に腰掛け外を眺めていました。
その晩ドアを薄く開け、待っていましたが、ドアが開くことはありませんでした。

部屋の中で、小さな異変に気付いたのは、日付が変わった真夜中のことです。
寂しさを紛らわせるため、ラジカセを引きずり寄せ、いつものようにスイッチを押しましたが、テープは回ることなくスイッチが上がってしまいます。何度試しても同じで、ラジカセの蓋を開けました。
なぜかお気に入りのキース・ジャレットのカセットテープが入っていません。部屋中と言っても、六畳一間ですが、くまなく探しましたが見つかりません。
しかし、カセットテープの代わりに、私が見つけたものは、長い年月が過ぎた今でも、大事に持ち続ける、青春の思い出になるものでした。
それは、教科書が詰まったカラーボックスで見つけた一枚の写真でした。分厚い辞書と教科書の隙間に、私に見つかるように挟まれていた写真に驚愕した私は、全身がわなわなと震るえ、愛おしさに脳が沸騰し、無数の気泡が身体中からから噴き出しました。
そして深い悲しみに襲われました。写真の中の矢野さんの手には、私の部屋から持ち出したカセットテープが握られていました。
私は矢野さんとは、もう逢えないような気がしました。
矢野さんは、一人で新しい生活を踏み出したのでしょう。僕のカセットテープを携えて・・・



夏休みが終わり、矢野さんへの想いが断ち切れなかった私は、矢野さんの学校へ毎日のように出向き、矢野さんの姿を探しましたが、出会うことはありませんでした。
数少ない男子学生に声を掛けては見ましたが、顔をしかめるばかりで、矢野さんを知るものはいませんでした。

街に秋の気配が感じられ、矢野さんの通う学校の生徒たちが、お洒落な秋の装いに変わったのを遠くで見詰めていた日、小柄な男子学生が私に声を掛けてきました。
「君が矢野を探している子?」
私はついに矢野さんの消息を知ることが出来たと喜びました。彼はきっと矢野さんと同じクラスの唯一の男子学生に違いありません。
「はい。S大の大野といいます」
「矢野は、もうここにはいないよ」
「えっ、ここにいない?」
「――訳あって辞めたよ・・・」言いにくそうに彼は顔をゆがめました。
「いつですか?」
「――君、知らないの?」
何か重大なことに、私の胸が騒いだ。
「矢野は亡くなったよ・・・」
「嘘だろ!そんな・・・いつ、いつですか?」取り乱した私は思わず声を荒げました。
「五月の連休の最後の日に・・・」
「まさか・・まさ・か・・・そんな、ばかな・・・」私は立っていられず、その場にしゃがみ込んでしまいました。

「君も悲しいだろうが、矢野勝美は亡くなった」
「ち、ちょっと待ってください!ここにいた矢野さんは弥生と言う名前ではないのですか?」
「弥生?・・・違う、勝美だ!」
男子学生は目を剥き、語気を強めました。
「そうか、君は弥生との知り合いだったのか・・・それなら、もうこれ以上深入りすることは、やめてもらいたい!矢野の名誉のために、同級生からの頼みだ」

私はどのようにしてアパートに戻ってきたのか分からない程、憔悴していました。矢野さんが、五月に亡くなっていたとは夢にも思いませんでした。なぜ亡くなってしまったのか、真相は分かりませんでした。
それではあの夏の夜、私の部屋にいた美青年は、写真に写る人物は、一体誰だったのか。いくら考えたみたところで、私には矢野さん、矢野弥生さんとしか思えません。
矢野さんは、誰も知らない、誰も行ったことのない無人の島、きっと楽園の島に僕のカセットテープを持って旅立って逝けたと、自分に言い聞かせました。
カラーボックスの上に写真を飾り、カップに紅茶を注ぎ供えました。自分で仕立てたドレスで微笑む弥生さんの美しい笑顔、私は一晩中泣き明かしたことを覚えています。

男でありながら女性の心を持っている苦しさがどういうものであったか、その後、人並みの恋愛と失恋を経験した私は、矢野さんの気持ちが、ほんの少しだけ分かったような気がします。
矢野さんも気に入ってくれた、キース・ジャレットの『ラレーヌ』。私が無人島に持っていく、唯一のレコードとして、今も傍にあります。





残暑お見舞い申し上げます。
何時になく猛暑、酷暑で、親愛なる読者の皆様はいかがお過ごしでしょうか。
なかなか、更新できなくて、貴重なお時間を割いて、お立ち寄りいただいた皆様に、大変ご迷惑をお掛けしたことをお詫びいたします。

話のネタに困ったときの音楽頼みで(笑)、キース・ジャレットの『ラレーヌ』を取り上げました。この曲以前にブログにアップしたことがございました。貴重な拍手もいただいておりましたが、同じ内容のお話を二度書いてしまったことに後から気付き、慌てて削除してしまいました。私のお気に入りの一曲で、無人島に持っていくレコードリストの常に上位に入っております。(笑)
偉大なジャズピアニストの名曲で、ご存知の読者の方は多いと思いますが、お読みいただきながら、お聴きいただければ幸いでございます。



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