夜のお伽噺

アルのオリジナル小説置き場です

チコ 8


暦の上では春を迎えたが、オフシーズンの雪が残る蓼科の林道は行き交う車も無かった。綴れ折の山道を慎重に登り、後部座席に座る芳村の指図で、見落としてしまいそうな小道に分け入り、高原の木立に囲まれた奥に、瀟洒な佇まいを見せる芳村の別荘はあった。芳村は、昨年から立ち上った新規プロジェクトに忙殺され、竣工した別荘の引渡しに時間が取れず、延期を繰り返した挙句、ささやかな休暇の時間を作った。
クルマの音で駆けつけた、改装を施工した建築家と、管理を頼んでいる地元の農家の夫妻の出迎えを受けた芳村は、竣工したばかりの別荘に満足げな表情を浮かべ、建築家に案内され邸宅の中に入って行った。トランクから出した手土産を恐縮の態で受け取った夫妻は、落ち着いたスーツ姿のチコに何度も頭を下げ、チコは内ポケットから名刺を抜き出し、夫妻に自己紹介した。
「はじめまして、『芳村ビルディング』の黒田と申します。芳村の秘書をしています。どうぞよろしくお願いいたします」
「芳村さんの秘書の方ですか、私は細野といいます。芳村さんとは、ご縁があって此処の管理を任されています。芳村さんは、いつもお一人でお越しになっていましたので、家内とちょっと驚いたのですけれど・・」
「そうですか、私は秘書になって、まだ間が無い者で、今日初めて此処まで運転手を務めてまいりました。よろしくお願いいたします」深々と頭を下げるチコに、細野も釣られて頭を下げた。

芳村との特殊な関係を持ったチコは、得体の知れない芳村に、自分の日常を脅かされることを懸念し、関係以外のことには、深入りすることを避けていた。しかし、芳村を取り巻く、想像を越えた大人の世界に、躊躇する間も与えられず足を踏み入れ、受けた刺激と誘惑は、チコが送る平凡な社会人としての模範を覆すものだった。さらには、芳村への服従に芽生えた淡い想いが、何時しか胸を焦がしはじめ、退職を決意した。若気の至りと言えば聞こえはいいが、熟慮した末の断行で、少々の蓄えと受け取る保険がチコの背中を後押した。チコは芳村に一度たりとも経済的なことを口に出すことはなかった。金で買われるような関係に身を落とすことが嫌だった。いつかは訪れる芳村との別れの退路、逃げ道を自から残しておきたかった。
チコの退職を妙子から聞かされた芳村は、チコを怒鳴りつけたが、自分にも少なからず非のあることは判っていた。芳村は諦めたように、チコに有無を言わさず、身の回りの世話を任せた。公私混同することの無いチコの振る舞いと、瞬時に場を読む勘のよさに感心した芳村は、私設秘書の肩書きを与え、自分でも大人気ないとは思ったが、黒田知永(くろだちはる)と名乗らせ、公の場所に連れまわすようになった。

「黒田さんお疲れでしょう、どうぞこちらに」芳村のバッグを両手に下げた細野は、チコを勝手口に案内した。真新しい調理器が備えられた調理場の奥の調理台を兼ねたテーブルに、細野はお茶の用意をし、小さな腰掛をチコに勧めた。細野の妻はリビングで談笑する芳村の接待に追われていた。
「こんなことを言っては失礼ですが、女性の方が運転してきたと、先ほど家内とびっくりしていました」
「よく間違えられます。もう慣れてしまっています」決まり悪そうに頭を掻きながら、笑みを浮かべる細野にチコは苦笑いした。この純朴な細野は、自分と芳村との特殊な関係を想像することさえ無いだろうとチコは思った。それでも芳村に仕えるようになったからには、誰にも関係を悟られることが無いように、改めて自分に言い聞かせた。


建築家と細野夫婦が引き上げ、チコは広いリビングに足を踏み入れた。一体何十畳あるのか見当もつかなかった。天井には真新しい太い梁が張り巡らされ、磨き上げられた天然木の床の匂いがした。珪藻土を平塗りした壁は、熟練した左官職人の仕事を窺わせた。早春の柔らかな陽射しが差し込む、南側一面の重厚なガラス戸の外にはウッドデッキのテラスが続き、その先には、除雪された、なだらかな斜面に森が広がっていた。背の高い黒檀の花器台に置かれた五連の見事な胡蝶蘭が建築家からの竣工祝いに飾られ、モダンなデザインの大きな鋳物のペレットストーブに火が灯り、リゾート気分をさらに高めた。淡いベージュ色の革のソファーセットだけが置かれた、何もない贅沢な空間は、まるで建築雑誌のグラビアを見ているようだった。芳村は寛いだ様子でソファーに身を沈めていた。
「素晴らしいです。言葉が見つかりません」
「そうか」余りに素っ気無い返答が芳村らしかった。


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昼下がりの下り電車の先頭車両は乗客もまばらで、向かい座席で細い指でスマートフォンに興じる美青年の容姿に見惚れながら、車窓から差し込む陽春が誘う妄想の睡魔が心地よかった。
濃紺のスーツにクリームイエローのお洒落なネクタイ、誇らしげに脇に置いた真新しい高価なビジネスバックが新社会人を思わせた。緩くウェーブのかかった髪、透きとおるような肌、眉を細く整え、長い睫毛に二重の瞼、何とも言えない暖かい、柔らかい、薔薇色の、そして薫りのいい空気が彼の身辺を包んでいた。もし口を利きあえば、歳にも似合わず胸が踊り、歯の浮くような殺し文句が口を衝いた。
戸惑いを隠せぬ青年の手を取り、そっと腰を引き寄せ、青春の肌の香りが、ムッと鼻をくすぐり、艶めいた吐息が鼓動を早める。股間に添えた手の内で発熱する蕾、羞恥の表情を浮かべ、性を覚えたての少年のような昂ぶりが指先を濡らす。悩ましい突然の春の嵐に襲われ、惑乱する身体を優しく抱え込んだ。春雷がきつく瞑った彼の瞼の奥で瞬き、急いでポケットから取り出したハンカチーフに満開の花びらを散らせた。

大きな揺れで夢から覚めると、青年の姿はそこにはなかった。開いたドアから吹き込んだのだろうか、一枚の淡いピンクの花びらが座席に落ちていた。



読者の皆様に支えられ、どうにかブログ開設二周年を向かえることが出来ました。誠にありがとうございます。訳あり、なかなか更新できない状態にあります。お時間をいただきましたことを、どうかお許しください。


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