夜のお伽噺

アルのオリジナル小説置き場です

武蔵野奇談 「雨跡」

十一

礼一郎の身体から離れた真女子、雨水を溜めた皿に
礼一郎の血液が混ざる精液を垂らし筆で溶くと、
黒い手帳をシーツの上で開き、
礼一郎に見えるように礼一郎の母、「榎木淑子」の名前を書いた。

筆先を目で追っていた礼一郎は驚きの声を上げた。
「真女子さん!」
「なぜ、なぜ、母の名前を知っているのですか?」
「淑子」の文字は紙の上で朱色に変わりながら紙を溶かし、無くなった。

「真女子さん、貴女は・・」
「わたくしは浜田山でお世話になりました小太郎でございます」
「何!小太郎?」
ベッドから上半身を起こした礼一郎。
自分の身体が動く当たり前の感覚に安堵した礼一郎。
「まさか!」
「まさか!」
「では、尊母様は?」
「金太郎でございます」
「えっ!金太郎!」
「私は夢を、幻を見ているか・・」
「もう彼岸が明けます。間に合うことができました」
「礼一郎様に恩返しが出来て・・嬉しゅうございます」

大粒の涙をこぼす美しい真女子。
「礼一郎様、これでお別れでございます」
「わたくし、真女子は礼一郎様に優しくしていただき幸せでございました」
猫のように忍び足で後退りする真女子。
「真女子さん、いや、小太郎!」
「行かないでくれ!」
「礼一郎様、お元気で」


「真女子さん!」


静まり返った杏林大病院の集中治療室に礼一郎の叫び声が木霊した。
意識の戻った礼一郎のベッドに当直医が駆けつけ、
夜勤の婦長は急いで礼一郎の母親に連絡を取った。

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武蔵野奇談 「雨跡」



「私は、私は、貴女のことが諦めきれなくて」
「嬉しゅうございます」
「でも、礼一郎様」
「あなたがお逢いしなければならないのは、わたくしではなくお母様」
「礼一郎様の心の奥には、何時もお母様への思いがおありでしょう」
「母?」
「左様で。あれから礼一郎様のことがご心配でひどく憔悴なさっております」
「母が、私のことを心配していると?」
「お母様だけではありません。お父上も弟様も皆さん大変心配しております」
「なぜ、皆が私のことを?」
「ご記憶が無いのは無理もありません」
「道路に飛び出した幼子を救うために身代わりに跳ね飛ばされ、
いまだに意識が戻らないのです」
「私が?」
「でも、不思議ではないですか」
「私は真女子さんとあの雷雨の中、出会った事は覚えているし、
食事に招かれたことも黒い手帳を頂いたことも覚えています」
「勿論、野川公園でのことも」
「それもこれも、すべてはあの手帳の為せることでございます」

予想もしなかった真女子の言葉に落ち着きをなくした礼一郎。
「それでは・・あの雷雨の日、真女子さんと逢ったのは偶然ではなくて・・」
「真女子さん、貴女が、私と出逢うように・・手帳に・・」
頷く真女子。

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武蔵野奇談 「雨跡」



朝方まで降った雨で残暑が一息付き、礼一郎は気分転換を兼ねスケッチブックを抱え
野川公園に散歩に出掛けた。
二枚橋を渡り、初秋を知らせる虫の音が響く野川の辺を歩く礼一郎の前に、
しゃがみ込み川のせせらぎを眺める日傘を差した女性。
礼一郎が近づくとすっと立ち上がり日傘を閉じた。

「真女子さん!」
「榎木様」
「ど、どうして此処に」
「此方に来れば榎木様にお会いできる気がして・・」
「まさか」
「まさか・・」
真女子の謎めいた妖しい微笑みに唖然と立ち尽くす礼一郎、すべての成り行きを
承知しているような真女子に言葉が出なかった。


淡いピンクの開襟ブラウスをグレーのタイトなパンツに合わせ、
まるで礼一郎の好みを知り尽くしているような真女子のスタイル。
「わたくしお転婆で、スカート穿いたこと無くて」
「男の方は私のような女は嫌いなのは分かっています」
「そんなことありません!」
「私は真女子さんのような女性が・・」
思わず「好き」と口走りそうになり、慌てた礼一郎は真女子を散歩に誘った。
「真女子さん少し歩きませんか」
無言で頷く真女子。

思いもよらぬ真女子との出会いにはしゃぐ礼一郎に、二人の仲はすぐに打ち解けて、
真女子が礼一郎のことを苗字ではなく名前で呼ぶようになると、
触れたお互いの指先が優しく握り合い惹きつけられ、
礼一郎は木陰で真女子をそっと引き寄せた。
華奢な身体が礼一郎の腕の中で小さく震え、恥ずかしそうに俯く
真女子の唇をそっと塞いだ。

「真女子さん、好きです」
真女子の甘い溜息が漏れ、力を無くしはじめた身体を礼一郎は受け止め、
抱き締めた。
「私は貴女が・・」
「ごめんなさい!」
突然の行為に驚いたように礼一郎の腕をすり抜け、真女子は駐車場に向って駆け出した。
後姿を追う礼一郎を振り切り、車に飛び乗った真女子の涙ぐむ横顔。

「真女子さん」
「待ってください」
「真女子さん!」
ドアに縋る礼一郎に顔を向けることなく車を発進させた真女子。
礼一郎はジャガーの赤いテールランプを追ったが、追いつくことは出来なかった。
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武蔵野奇談 「雨跡」



猫談議に花が咲き時間が過ぎるのは早いもの、満足したのか黒猫チコが
礼一郎の膝の上から降りたのを機に時計を見れば早十一時過ぎ。
心篭った夕食の招きに礼を述べ、長居の無礼を詫びる礼一郎の前に、
女夫は真女子に持って来させた紫の江戸小紋の風呂敷包みを解いた。
包みからは黒光りする一冊の手帳が。いや、手帳というには余りにも薄かった。

「これは慶長年間、岐阜美濃にあった小笠原家に伝わる
楮の樹皮で漉いた和紙でございます」
「表紙はご覧の通りの黒牛のハラコでございます」
「これを榎木様にお持ち帰り頂きたいと」

「その昔、紙は大変貴重なことから何度も洗いに出され、鋤き直していたようで、
その度に書き記した武将、大名の念が刷り込まれ、特殊な力を宿すことになったと
言い伝えられております」
「特殊な力?」
「はい」
「この紙に雨水をふくませた筆で、お逢いしたい方の名前を書くと
願いが叶うということでございます」
「まさか・・」
にわかに信じがたい話に笑い顔で礼一郎は女夫を見返した。

「信じられないことは尤も」
「でも榎木様、世には信じられないことなど多々ございます」
気迫こもる女夫の眼差しにたじろぐ礼一郎。
「それでは・・雨水で名前を書けば逢いたい人に逢えるということですか?」
「おっしゃる通りでございます」
「なぜにそのような奇特な物を私などに?」
「これも何かの縁でございます。お世話になった榎木様に差し上げたいと思います」
「不慮の事故に遭い、老い先短い身体。榎木様にお会いできるのはこれが最後かと・・」
「何をおっしゃいますか」
「綺麗なお嬢さんがいるではないですか」
「榎木様、私からもお願い申し上げます。どうかお納めになってください」
母の横で頭を下げる真女子。

手渡された手帳のビロードのようなしっとりした手触りが並の誂えとは
違うことはすぐに分かった。
「車の用意をしてまいります」
立ち上がった真女子の安堵の表情に礼一郎は、何かとんでもないものを
受け取ってしまったように思えた。

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武蔵野奇談 「雨跡」



陽は西に大きく傾くも夏の夕刻は明るく、時間通りに迎えに来た娘の運転する黒いジャガーの
後部座席に腰を下ろした礼一郎。血のような真っ赤なシートが落ち着かなかった。
娘の流麗な運転で滑るように走るクルマ。
連れてこられたのは天文台近くの小高い丘の庭木が茂るモダンな平屋。
出迎えに現れた脚の不自由な尊母にダイニングルームに案内された。
年代物のシャンデリアが点り、アンティークの重厚なテーブルには
すでに食事の用意がされていた。

「榎木様ようこそお出でくださいました」
「昨日はあのような雨の中、お助け頂き誠にありがとうございます」
「いえ、礼には及びません。本日はお招きありがとうございます」
「申し遅れました。真女子の母、小笠原、女の夫と書いて『みょうと』と申します」
「小笠原家では代々名前に「女」の文字を使う決まりがございます」
「娘は真の女子と書いて『まなこ』私は女夫」
「粗末な料理しかお出しできませぬが、今宵はお寛ぎいただきとう存じます」
「大変モダンなお住まいと拝見いたしました」
「ありがとうございます。此処は真女子の曽祖父が戦後おりました」
「曽祖父はアメリカ生まれで、この辺は接収された調布飛行場があった関係で、
アメリカ軍人の住宅地になっておりました」
「あのサッカー場がある所も接収されていたところでございます」
大きな窓から眼下に味の素スタジアムが見えた。

「このようなことを榎木様にお話してよいかとは思いますが、
四月に交通事故に遭いましてこのような身体になってしまいました」
「それはお気の毒に」
「事故に遭うまでは浜田山で何不自由なく動いておりましたのに・・」
「浜田山ですか?」
「はい」
「奇遇です。三月まで浜田山に住んでいました」

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武蔵野奇談 「雨跡」



郵便局に立ち寄り並びのスーパーで買い物を済ませ外に出ると空が鳴り、怪しくなった雲行きに、
榎木礼一郎は慌てて自転車に跨った。
習い事が好きだった母の影響だろう。才能も運も無いのに芸事にうつつを抜かしていた礼一郎。
今年三月、創業者の父親が会長職に退き、真面目で商才に長けた弟が社長に就任したのを機会に、
浜田山の家を追い出された。

最後まで反対したのに、父を説得できなかったことを涙ながらに詫びる母。
しかしそれも致し方ないと納得した礼一郎。困難な生活を甘受することで、誰も気にすることなく制作に没頭できると自分に言い聞かせた。


顔に当たる大粒の雨が土砂降りの雷雨に変わり、礼一郎は自転車を飛ばした。
野川公園の緩い坂を下った先にハザードを点滅させ路肩に止まる黒いジャガー。
傘も差さずに前輪を覗いていた娘が立ち上がり、近づいてきた礼一郎に縋るような仕草で助けを求めた。
「どうしました?」
「パンクしてしまって」
完全に空気が抜け前輪が下がっていた。
「武蔵境の病院から母を連れて帰る途中でこんなことになってしまって・・」
真っ赤なシートから心配そうに身を乗り出す痩せたご婦人がガラス越しに会釈した。

日本人離れした娘の困惑した表情。
濡れて肌に張り付いたブラウスから透けたブラジャーに目を泳がせた。
「それはお困りで。すぐに交換してあげましょう」
安堵した娘の顔が美しかった。
雷を怖がる娘を運転席に座らせ、トランクからスペアタイヤと工具を取り出し、ずぶ濡れになりながら
ジャッキで車体を持ち上げた。

「ぜひお礼を」
「せめてお名前をお聞かせください」と迫る娘を残し、礼一郎はその場を立ち去った。

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