夜のお伽噺

アルのオリジナル小説置き場です

ひと夏の経験 11

信じがたいことですが、生まれて初めて遭遇した本物の幽霊が、誰もが思い描く幽霊とはあまりにもかけ離れ、俺は親しい友人のような気楽な付き合いしている。
しかし、果たして生死の境をさまよう小早川さんにとっていいことなのか。
特殊な事情があるとはいえ、家族に知らせないでいいのか。小早川さんの口からは家族云々の話は全くないが、俺はとんでもない間違えをしているのではないのだろうか。
ひとりで抱え込むにはあまりにも重大な事態。頼りにできるのは雅子ママしか思いつきませんでした。もう一度雅子ママと真剣に話をしなければなりません。俺は雅子ママの助けを心から求めていました。
長い呼び出し音の後、電話は繋がりました。
「あのー雅子ママさんですか?遠山です」
間を置いて、酒がれしたあの声が耳にこもりました。
「あっ、遠山さん」
「――名刺、気づいたのね……」
昼間のこの時間、休んでいたのでしょうか、ダミ声が少々気落ちしているように聞こえました。

暑いから、お疲れのようだから俺が行きます。いえ大丈夫、私が行くわ。押し問答の末に、私に行かせてちょうだい!と例の強い口調で凄まれ、雅子ママが笹塚に来ることになった。
約束の時間に笹塚駅近くの商業ビルの前にタクシーが止まり、ゆったりした白いブラウスにパンツ姿の雅子ママが降りたちました。
昨夜のお店での印象と全く違う姿に、雅子ママの素性を知らない人には、どこにでもいるおばさんのように見えると思います。やはり疲れているようで、大儀そうに肩で息をしています。
込み入った話が出来るように、俺はビルの二階にある広いカフェに誘いました。ここは安サラリーの俺には敷居が高い店ですが、メイド服のウエイトレス見たさに時々出掛けます。
小柄なメイドさんに案内され駅前を見下ろす窓際の席に向かいあって腰を下ろしました。
「可愛いメイドさんだこと。ね、遠山さん」
雅子ママはニヤリと笑い、今日もメイド姿に一瞬目を奪われた俺は、気まずさをごまかすため額の汗をおしぼりで拭いました。

「遠山さん、無理やり呼び出してごめんなさい」
「私もノリ子も信じることなどできなかったけど、あそこまで言われるとなんだか怖くなっちゃって。でもね今も正直言って半信半疑なのよ……」
あそこまでの話とは、雅子ママとノリ子さんと付き合いのある者、まさにユミさんしか知り得ない二人のプライベートなことでした。
「遠山さん、あなたには失礼だったけど、一刻も早くお店から出ていってほしかったの」
「ノリ子は若いだけあって、オカルトチックなことを信じやすいのね。妹のように可愛がっていたユミちゃんが幽霊に化けたって、ノリ子の落ちこみが半端なくて。私、お店の子たちにどう説明したらいいのかわからなくなって……」
「私、長いこと夜の商売をやっていてね、信じてだまされて辛酸をなめたことがいっぱいあるわ」
「それでもね、事がユミちゃんの生死に係わることだから、もう一度、できれば昼間にお会いして、きちんとお話ししなければいけないと思って、名刺をポケットに入れたの」
「もしあなたが適当なこと言っていたなら、昨夜の話がデタラメなら連絡はしてこないでしょうから、あなたを試したの」
「だから、電話、掛かってこないでって、ずっと祈っていたわ」
「悪い冗談なら、後々までお店で笑い話になったのに—―遠山さんから連絡もらって、冗談じゃなくて本当なのって、怖くて震えた」
「遠山さん、ユミちゃんの荷物を預かっているって言っていたわよね?――まだ、あなたを疑るわけではないのよ。それを確かめられたらと思って」
俺を見据える雅子ママの真剣な眼差しに頷きました。
百聞は一見に如かずとはよく言ったものです。俺の説得力の無さ、話し下手で雅子ママにいくら説明しても信じてはもらえませんでしたが、預かっているユミさんの衣装を見てもらえば一目瞭然です。

運ばれてきたアイスコーヒーを一気に飲み干した雅子ママはおかわりを頼み、俺はその豪快な飲みっぷりに圧倒されながら、小早川さんと歩いた夜の散歩のことを話しました。
お店から追い出され、不機嫌だった幽霊の小早川さんと花園神社に立ち寄り、幽霊に驚くカップルをしり目にお参りしたこと。
小早川さんがT大付属病院の集中治療室にいることをその時はじめて知ったと告げると、あきれ顔だった雅子ママの顔色がみるみる曇りました。
病院の前で別れると二度と会えないような気がして、小早川さんをマンションまでの散歩に強引に誘い、ユミさんに会ってみたいと迫っても、小早川さんは返事をしなかったこと。
それでもベッドに並んで腰を下ろすと、安心したように寝息を立てる小早川さんに安堵し、うたた寝している間に小早川さんが消えていたことを。
「遠山さん、ありがとね。ユミちゃんの隣にあなたがいて本当によかった……」
ハンカチで目頭を押さえる雅子ママに、子を心配する母の母性を感じました。


黒いレースの日傘を差す雅子ママをマンションまで案内しました。遠目に見えたパトカーがマンションの玄関前に止まっていて、雅子ママと思わず顔を見合わせました。
7階でエレベーター降りると、俺の部屋の隣、704号室、小早川さんの部屋のドアが大きく開かれ、午前中だけいるユニフォーム姿の管理人さんが不安げな様子で廊下に立っていました。
そこが小早川さんの部屋であることをすぐに察した雅子ママは俺の腕をきつく握ります。不吉な予感で血の気が引きます。管理人さんと視線が合い、俺は挨拶しました。
「こんにちは。隣の遠山ですが、小早川さんどうかしましたか?」
俺は平静を装い尋ねました。
「――連絡がつかないそうで……」
管理人さんは俺にどこまで話していいのか、困惑した表情を向けます。
部屋の中には二人の警察官と初老の男性が立っていました。
俺は中の三人にも聞こえるように言いました。
「弓弦さんとは先週末会ったばかりなのに……」
小早川さんの本名を名乗り、全くの他人でもないことを匂わせると、一人の警察官が戸口に出てきました。
「こちらお隣の遠山さんです」
すぐさま管理人さんは俺を紹介しました。俺と雅子ママを一瞥した警察官は後ほどお伺いすることがあるかもしれませんと言い残し、部屋に戻りました。

警察官の不愛想な対応に管理人さんは戸口を離れ、俺たちを手招き、声を潜めて事の次第を聞かせてくれました。
「小早川さんのお勤め先の方が、小早川さんと連絡がつかないからと、管理会社に連絡をいただいて、私が部屋を見に行ったのですが、留守でした」
「管理規約でうちの会社が勝手するわけいかないので、小早川さんのご家族に連絡して、お父さんがいらっしゃったのですが――ドアに鍵が掛かっていなくて……警察に立ち会ってもらった方がいいと、お父さんの承諾いただいて、私が通報しました」
「まあ!」
事の成り行きのすべてを知り、思わず上げた雅子ママの性別不明の声に不審な眼差しを向けた管理人さんに、俺は咄嗟に出任せを口にしました。
「叔母です」
俺は振り返りざま雅子ママに目配せしました。
「はじめまして。いつも甥がお世話になっております」
雅子ママは落ち着き払って管理人さんに頭を下げました。さすが雅子ママの切り返しに舌を巻きました。

「そ、それじゃ小早川さんは、ま、ま、痛テ!」
雅子ママは俺の腕を荒っぽく引っ張り、強引に会話を打ち切らせ、何度も笑顔で管理人さんに会釈し、急いで俺に部屋を開けさせました。俺の背中を突きとばし玄関に押し込め、慌ててドアを閉めました。
「もう遠山さん、なに言いだすかハラハラしたわ。お店で話したような幽霊のことを警察官に言ってごらんなさい。大変なことになるから」
俺は小早川さんの身元が、まだ分かっていないことに落胆して、ベッドに座り込み肩を落としました。
「でも、でも、早く、家族に知らせないと……」
「そりゃそうだけれどさ、私たちだってあなたの話信用できなかったのに警察が信用すると思っているの!」
「よく考えてごらんなさいよ。連行されて尋問受けて、訳の分からない話をすれば、犯罪の嫌疑をかけられ、社会人の立場が無くなるわよ」

世間知らずに手を焼き、やれやれと呆れた様子で雅子ママが隣に腰を下ろし、俺の膝をポンと叩き揺すりました。
「遠山さんって、やさしくて、バカが付くほどまじめで他人思いで、危なっかしくて見ちゃいられないわよ」
「でもね、ユミちゃんの手助けしてくれて、本当に感謝している」
「前にね、ユミちゃんから聞いたのだけど、さっき部屋にいたユミちゃんのお父様、厳しい人でね、まあ、私から言わせれば分からず屋だけれど—―学生の頃ユミちゃんが派手な色の服を着ると、オカマにでもなるのかと、すごい剣幕で殴られて。台所でお湯を沸かしただけでも怒鳴られたそうよ」
「お母様はユミちゃんのこと何となく気付いていて、庇ってくれたのだけど、お前のしつけが悪いと、お母様まで叱られてね」
「だからユミちゃん、部屋の物をお父様に見つかると大変なことになるって思ったのね。お母様に迷惑掛けられないって倒れても気が気じゃなかったのね」
なぜ小早川さんが幽霊になってまで、俺に助けを求めたのか納得し、ひとつ肩の荷が下りた気がしました。それでも、浮かぬ顔の俺を気遣い、雅子ママは慰めてくれました。
「遠山さん心配ないって。警察は優秀よ。今日中に病院にいるユミちゃんの身元は判明するわよ」

俺は雅子ママの言葉に力なく頷きました。そして、部屋の隅にシーツで包んで隠しておいた小早川さんの預かり物、山積みの女性衣類を見せました。
「部屋から持ち出してくれた物ね。どれも見覚えがあるわ――ユミちゃんたら大騒ぎさせて……」
雅子ママは一着ずつハンガーが付いた洋服を手に取り、衣装ケースの中身を確かめるように蓋を開けました。
「遠山さん、衣装ケースの中身見た?」
「いいえ、他人様の預かりものですから」
俺はきっぱりと答えましたが不安になりました。
「何か貴重品が入っているのですか?」
「貴重品と言えば、貴重品かしら—―コ・レ!」
雅子ママはいそいそとケースからパンティーを取り出し、俺の前でひろげました。一枚二枚、何枚もの色とりどりのパンティーが目の前に並びます。顔を赤らめ目を泳がす俺にトドメの一発!
「こんなに小さいの、私にはお尻がはみ出ちゃうわ。見て!」
アソコの部分が透けた真っ赤なパンティーに目を奪られ……俺は恥ずかしくも驚嘆の息を音を立てて呑み込みました。
「こういうものが童貞ちゃんの甥っ子の部屋にあったらマチガイの元だわ。叔母さん心配だから、すぐにノリ子に取りに来させるわ」
そう言ってほくそ笑んだ雅子ママは、惜しむ暇なくサッサと仕舞ってしまいました。


つづく。


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ひと夏の経験 10

薄目を開けると、朝日と呼ぶにはいささか強い陽が、カーテンの隙間から差し込んでいました。ぐりぐりと目をこする。まだ昨夜の出来事の余韻が残っていて、身体が重かった。
搬入先のT大付属病院の前で集中治療室に戻ることを躊躇した小早川さん。ここで別れたら二度と小早川さんと会えないような胸騒ぎを覚えた俺は、無理を承知で病人の幽霊にマンションまで歩かせたが、俺も小早川さんも夜の散歩を満喫したことに後悔はなかった。
それでも疲れた様子をみせた小早川さんは無事に病院へ戻っただろうか。
ベッドに座り込み、ぼんやりとスマホを眺める。誰もいない道をならんで歩きながら交わした会話、俺の隣で寝息を立てる小早川さんの姿が脳裏に蘇えります。

私ね、ママのお店を手伝わせてもらってから、安心したというか、いろいろな悩みから解放された気がする。お店の人はみんな人生経験豊富で、私のような中途半端な人間の、誰にも相談できないことを真剣に聞いてくれて、すっごく救われた。調子に乗って怒られたこともあったけれど、素直に謝ることが出来たの。

ノリ子姉さんはね、女性とはこうあるべきで、こうすべきだと想いというか信念があるの。ママもそう。恋愛に真剣で、惚れた相手に人一倍つくして。
でもそれが相手に伝わらず裏目に出ることもあって、すごく落ち込むの。見ていられないぐらいに。
でもねすぐに新しい恋人を見つけて、あんなに落ち込んだこともすっかり忘れて、ケロッとして嬉しそうにのろけて、それを聞かされたみんなもハッピーな気持ちになって、乾杯!ってね。
男は女性とちがって失恋を引きずるけど、ママもノリ子姉さんもそんなことないように思える。強い女性の心持かな。

私はどうかって?ユミになりきって、いろいろな人に出会って、心惹かれた人もいたけれど、恋愛に発展するまでにはね。正直怖い気持ちがある。まだそれ以上に夢中になれる人と出会ったこともないな。それに軽率な行動でノリ子姉さんに迷惑かけちゃたから。
私のような人間に興味を示す人は、男性ばかりででなく女性にもいるよ。セクシャルな興味を持っている人もいる。そのほうが多いかもしれない。
じつは俺もそのひとりです。小早川さんは俺の気持ちなど、とっくに気付いていただろうが、俺は今さらながら小早川さんに白状しました。
ユミさんの画像を見せられた俺、アイドルとは違う親近感を覚えて、一目惚れしちゃって。頭の中で自分勝手な筋書き立てちゃって。
ねえねえ、どんな筋書き?知りた~い。
秘密です!
ちぇ秘密か……。頬を膨らませた小早川さんのすねた仕草に、俺はなぜかうろたえてしまった。

がっかりした?ユミの正体が男だったことを知らされて。
びっくりしました。テレビに女性と見間違う綺麗で可愛い人が出るじゃないですか。俺には関係ない世界のことだと思っていたけれど、まさかお隣に住んでいたとは思いませんでした。
俺、だまされたなんて思っていません。ユミさんの正体が小早川さんだったと知った今も、ほんとにへんな意味じゃないのです。変な考えじゃないです。一度お目にかかりたかったなと。
お世辞でも嬉しいな。小早川さんのちょっと冷めた口調に、なぜかムキになった俺。
お世辞で言っているんじゃないです!
それじゃ怖いもの見たさの好奇心?
幽霊より怖いものがあるのか、小早川さんは自分が幽霊だということを本当に理解しているのでしょうか。
それに、預かっている衣裳はどうすればいいのです。
着ていいよ。遠山さん、自分の知らない新しい世界が広がるよ。
この俺が似合うと思います?
俺の頭のてっぺんから爪先まで視線を這わせた小早川さんの、思わず漏らした小さな溜息を俺は聞き逃さなかった。

私もね、はじめは鏡に映る自分の姿を見て、ひとり何をやっているのだろうと自己嫌悪に陥ったけれど、体形の課題が見えてきて、それをひとつひとつ克服していくと、あら不思議
見栄えは少々悪いけれど女の子に化けちゃった。
ものは試しにネットで公開すると、つぎつぎ人が褒めてくれてね、そうなると頑張るって欲が出ちゃって、理想の女性像を追い求めてね。
鏡の中の女性に恋してしまうまでになれば、もう無敵かな。
二重人格ということですか。
二重人格とは違うと思う。究極のナルシシズムかな。自己愛、自己陶酔。
それって、ママさんやノリ子さんも同じ気持ちなのでしょうか?
そうね同じ感覚かな。いえ、ママやお姉さんは私のように外見、形からのナンチャッテではなくて、鏡の姿に自分の内心とのギャップに悩んで、本当の自分、本来自分はこうだったはずだと、その姿を毎日真剣に追い求めているの。
なんだか難しそうです。不器用な俺には無理です。それよりユミさんとは会えないのですか?
遠山さん、実物のユミに合って、がっかりして幻滅するかもしれんないよ。
そんなの会ってみなければわかんないでしょ!
鼻息を荒げた俺の物言いに歩を止めた小早川さんは、小さな黒い虫が飛ぶ街灯を物憂げな表情で見つめていました。



冷蔵庫を開けてみたが、朝食になりそうなものは何もありません。買い物に出掛けようと思い立ち、ついでにノリ子さんのファンデーションで汚れたスーツをクリーニングに出さなければと、上着のポケットを検めるとピンクの小さな名刺が出てきました。
それはクラブ雅の雅子ママの名刺でした。思い返しても雅子ママからもノリ子さんからも名刺をもらった記憶はありません。
名刺を裏返すと、流麗な文字で『ユミのことでご相談があります ご連絡ねがいます』
と走り書きされ、携帯の番号が書かれていました。いつポケットに入れられたのか。雅子ママにすごい剣幕で背中を押されて店を追い出された、あの時かもしれません。それ以外は考えられません。
マジックのようなことが出来るのは、水商売の長いキャリアからでしょうか。
感心している場合ではありません。ユミのことで相談とは尋常ではありません。短い文面からママさんの切迫した気持ちが伝わってきます。
一瞬また怒鳴られるのかと気が重くなりましたが、指はすでにスマホのダイヤルをタッチしていました。

つづく。


この度の西日本豪雨により被災された皆様ならびにそのご家族の皆様に心よりお見舞い申し上げます。

長いお休みを勝手に頂き、ゴメンナサイ。



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ひと夏の経験 9

まいった。
俺の交渉スキルの無さが、二人を納得させられないばかりか、怒らせてしまった。行き場のない思いを持て余して、空を仰ぎました。新宿の夜空には月はおろか星さえも見当たりません。
でも、どれだけ優秀な営業マンが誠意を尽くして説明しても、見えないもの、ましてや幽霊のことを、二人に納得させられることができるのだろうか……責任逃れのようなことを考えてもみましたが、小早川さんの無念さを思うと、やはり自分の至らなさを思い知っただけでした。

「小早川さん、ちょっと待ってください」
前を行く小早川さんの背中を追います。小早川さんは振り向くことはありません。
すれ違う通行人が一瞬俺の顔に目をとめます。夜の街では誰にも小早川さんは見えないようです。
靖国通りに出たところで小早川さんに並びました。雅子ママの一言が効いたのでしょう、むずかしそうな顔の小早川さんに詫びました。
「申しわけありません。俺の言葉足らずで」
「遠山さんのせいじゃないです。私が無理なお願いをしたから。ノリ子姉さんだけには分かってほしかったけど……」
カウンターで肩を震わせていたノリ子さんには分かっていたと思います。でもその事実を受け入れることができなかったと思います。

「遠山さん、上着の汚れどうしたの?」
スーツの前襟とワイシャツに付いた肌色の汚れに小早川さんは怪訝な表情を向けます。
「これノリ子さんに押さえつけられた時に付いたのかもしれません」
指先で汚れを擦りましたが、上手くとれません。
「化粧品の匂いがします」
汚れに顔を近づけた小早川さんの表情がみるみる曇ります。
「これファンデーションだわ……傷痕を消す治療を受けたと言っていたけど……」
「きれいには消せなかった――みんな私のせい」
残る傷痕を目立たないようにするため化粧品でごまかす。落胆の色をさらに濃くした小早川さんは唇を噛みしめ肩を落としました。

「――私のことを妹のように可愛がってくれて」
そう言って瞳を潤るませる小早川さんに胸が締め付けられます。気の利いた慰めの言葉のひとつも言えない不甲斐なさが身に染みます。
「でも意外とみんな常識的だったのね。だって、幽霊に会うなんて滅多にないことでしょ、キャーキャー言って大騒ぎしてくれると思ったのに。期待外れ!」
涙を拭き払い、唇を尖らせる小早川さんの強がりにも聞こえる言葉に、俺はどういう言葉を返せばいいのでしょう。

「でもさ、遠山さんが私のこと見えていたから、雅子ママにもノリ子姉さんにも気持ちを伝えることが出来て、まあいいかって。思い残すこともないかなって」
吹っ切れたような小早川さんの言葉と表情に、なぜだか俺の気持ちが収まりません。
「――雅子ママは生身で来いと言っていたじゃないですか。生きてもう一度お店に来いということでしょ、生きることを諦めちゃうのですか」
小早川さんは俺の問いに応えず足を速めます。切ない気持ちを抱え小早川さんを追いました。

明治通りの交差点で立ち止まり、振り向いた小早川さんは一転笑みを浮かべ言いました。
「遠山さん、花園神社に行ったことあります?」
「――花園神社ですか……いえありません」
「ほら、あそこ」
小早川さんが指さす方向に目を向けると、確かに神社の鳥居が見えます。
「行ってみません?社殿は閉まっていると思いますけど」
「――かまいませんけど……」
神社に幽霊とお参りに行ってもいいのか、信心深いわけではありませんが、神様が驚かなくてはいいが……。

交差点を左折するタクシーのヘッドライトの明かりで小早川さんの輪郭が消えます。
「酉の市って知っています?11月の酉の日にお祭りがあって、去年ママとノリ子姉さんと三人で熊手を買いに行ったことがあってさ」
「熊手って商売繁盛の縁起物のことですよね」
「夜も遅い時間だったんですけど、露店の飲み屋さんが何軒も出ていてすごく賑やかなの」
「ママも姉さんもこの界隈では有名人でね、いろいろな人から声を掛けられて、お店に誘われて大騒ぎして」
「今年もママは行くのかなって、思っちゃった」
「縁起物って古いのは納めて、新しいのに買い替えるっていいますよね。たぶん行くと思いますよ」
「――そうよね」
その場に小早川さんが一緒にいるのかは、俺にもわかりません。小早川さんも同じ思いのはずです。

大鳥居をくぐり、花園神社の暗い参道の石畳を歩きます。濃い夜の気配があたりに満ちています。ビルの谷間を抜けると正面に花園神社の立派な社殿がありました。
真夏の夜に静かな暗がりを求めるカップルの多さは、やはり新宿という場所柄でしょう。
石段に腰を下ろし、ささやき合う何人かの男性には小早川さんの姿が見えるようです。
彼らの驚く様子が可笑しくて、小早川さんは両手を体の前に垂らし、お決まりの幽霊のポーズをしてふざけています。

小早川さんと並んで拝礼します。まずは深く頭を下げ幽霊と参拝したことを詫び、小早川さんの回復を祈願しました。
「ずいぶん長く頭を下げていましたけど……」
「小早川さんの一刻も早い回復をお願いしました」
こうなった行き掛かり上、俺は生身の小早川さんを雅子ママとノリ子さんにもう一度会わせ、事の顛末を小早川さんの口から二人に語ってほしかったのです。
「遠山さんて、やさしいですね」
「やさしいなんて、はじめて言われました」
なんだか小早川さんの物言いがやわらかく聞こえ、俺は照れくさかった。

遠山さんに案内したいところがありますと言った小早川さんに手招きされ、トンネルのように並ぶ朱色の鳥居をくぐります。奥に社が見えます。
「遠山さんにぜひお参りして欲しかったところです」
“威徳稲荷大明神”
いとくいなりだいみょうじん。厳かで威厳があり、それで徳もあるということでしょうか。
「ママに聞いたのですが、ここは、子宝、縁むすび、恋愛成就のパワースポットで有名なんだって。上を見て」
なんと驚いたことに鳥居に大きな男性器が祀られています。日本中に男性器信仰があることは知っていましたが、大都会新宿にもあったとは……。
「この神様にお願いすれば、遠山さんにもきっと可愛い彼女さんが出来ると思いますよ」
「――そうでしょうか。俺、みんなからダサイ奴だって言われていますから……」
「そんなことないです。みんな見る目がないです。遠山さんがは本当にやさしいひとです。私つくづく思いました。さあ、可愛い彼女が出来ますように、いっしょにお参りしましょう」
小早川さんに促され俺は威徳稲荷大明神に拝礼した。それでも俺の願いは隣で頭を下げる小早川さんの回復を祈願していた。


花の金曜日、深夜だというのに人の波は絶えない。新宿大ガードの下は、生ぬるい饐えた風が、靖国通りから青梅街道へと吹き抜けていた。高層ビルが、時を刻むように赤いランプを点滅させている。
T大付属病院の手前で足を止めた小早川さんの顔色がさえなくなりました。
「私この病院の集中治療室にいます。こうやって遠山さんといると見ないのですが、ベッドに寝ていることを意識すると、綺麗な湧き水の池の畔にいる自分の姿が見えます」
「湖面に映る自分の姿がユミになっていて、かがんで水に手を入れると気持ちが良くて楽になるの……」
川と池の違いはあるが、俺はすぐに三途の川を想像した。川に入ると痛み苦しみから解放され川向こうのあの世に旅立つ。
「でもその時、遠山さんのことが頭をよぎるのです。遠山さんに逢わなきゃって」
「俺にですか?」
「私のことを遠山さんだけが見えて、会話が出来るから安心できるのかもしれません――自分でも上手く説明できませんが、遠山さんのとこに行こうって」
すべてが説明できるほど、人は自分の心を知りはしないのは、こんな俺でもわかります。
幽霊に魅入られてしまったと思いましたが、ここで小早川さんと別れる気になりませんでした。もし今夜ここで別れたら、小早川さんとは二度と会えないような気がしてなりませんでした。俺の気持ちは決まりました。

「もし身体が無理じゃなければ、俺の部屋に来ます?」
「えっ、いいんですか?お邪魔ではないですか?」
「イイトモ~って、ちょっと古いですね」
「かなり古いね」
満面の笑みを浮かべる小早川さんに俺も笑みを返した。人助けならぬ幽霊助けに、なぜか気持ちが弾みました。

明かりの消えたビル、疾走する車。人通りの途絶えた通りを友人と歩く楽しさを俺ははじめて経験しました。
部屋の明かりを消したまま、俺と小早川さんはベッドに並んで腰を下ろしました。
小早川さんの手が俺の手にそっと重なりましたが、感触はありません。
そして俺に寄りかかり安心したように目を閉じた小早川さん。重みすら感じませんでしたが、ほっこりとした気分に浸りました。
俺の力不足で、雅子ママとノリ子さんへの小早川さんの願いは叶いませんでしたが、すやすやと寝息を立てる小早川さんに、少しだけ役に立てたことを実感し安堵しました。

しばらくして目を覚ますと小早川さんの姿はありませんでした。


つづく。


親愛なる読者の皆様、ご無沙汰しております。
案の定、夏が終わる前にお話しを書き終えることが出来ませんでした。
お詫び申し上げます。
言い訳はいろいろあるのですが、絶不調とだけ言わせてください。
続きはまた少し時間が掛かりますが、どうかお許しください。
お義理でも拍手などしていただければ、救われます。



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ひと夏の経験 8

俺の話を信じたのか、それとも匙を投げたのか、雅子ママは疲れたと、ソファーにぐったり寄りかかりました。
「遠山さん、アナタの話は分かったわ」
「ユミちゃんが大変なことになっていることは調べれば分かること、信じましょう」
「――でもね、ユミちゃんの幽霊がお店にいるとはどういうことなの?」
「ユミちゃん、死んじゃったってこと?」
「いえ、小早川さんは亡くなっていません。いませんが、意識が戻らないそうです」
「そうですよね、小早川さん?」
雅子ママの背後でにこやかにポーズする小早川さんは頷きます。
「どこ見て話してるのよ、だれもいないじゃない」
俺の視線を追ったノリ子さんは眉を潜めました。

「遠山さん、どうにか話が伝わったようね」
小早川さんは雅子ママの隣に音もなく腰を下ろしました。
「小早川さん、ひどいです、騙して……」
「へへ、ごめん。でも遠山さんが勝手に思い込んじゃったんでしょ?」
痛いところを突かれた俺は、反論することはできませんでした。

「ちょっと、ユミちゃんの幽霊がいるの?」
「お店の中飛び回っていましたが、やっとママさんの隣に座ってくれました」
「えっ、隣に!」
驚いて飛びのいた雅子ママは隣のソファーを凝視しますが、やはり見えてはいません。
「私には、見えないわ。ノリ子見える~」
「見えな~い」
面白くなさそうな声を上げふて腐れた二人は、当然の疑問を俺にぶつけます。

「なんでアナタにだけ見えて、私たちには見えないのよ?」
「俺にも分からないんですけど、小早川さんが言うには女性には見えない……」
「それは分かるわ、女は感性が鈍いから見えないのよ」
ノリ子さんは俺の言葉を遮り自説を主張します。
俺は二人の顔色を窺い、小早川さんから聞いたことを恐る恐る伝えます。
「――それと男性も見える人と見えない人がいるようですが……」
「オカマには見えないってこと?誰なら見えるのよ!」
眦を吊り上げた雅子ママを両手で制しました。
「落ち着いてください」
「オマエモナ」
息の合った二人の見事なハーモニー、恐るべし。

「小早川さん、いろいろ試した結果、小学生の男子と少年には見えるそうです」
「子供にしか見えないってこと?でも変よね、アナタは見えるのよね?」
「ええ……ですから、こんなにややこしいことに……」
俺は助け舟を求め小早川さんに目で訴えます。
いまだに明解な答えを導くことができない俺を、察し悪い奴とばかりに舌打ちする小早川さん。
「遠山さん、まだ分からないの――子供にしか見えないの」
「純真な心だから見える」
「――それじゃ、私たちには見えないわよーねぇノリ子」
「そうよ、もうドロドロに汚れているもの」
二人の冷笑と小早川さんの冷ややかな視線。
「もう遠山さん、童貞にしか見えないってことなの!」
「……」
「――ハハハ、童貞だけ……だそうです」
なぞは解けました。
俺は自分の頭の足りなさ、考えの至らない愚かさを責めました。
自慢ではありませんが、確かに俺にはそのような体験はありません。
酒の席とはいえ、またもや童貞を白状させられた恥ずかしさ、二人はうな垂れる俺を絶滅危惧種でも見るように好奇の目を向けます。
キャバクラの悪夢が蘇ります。


「童貞にしか見えないだと!」
幽霊が見えるのは童貞だけだった。支離滅裂な言い訳に聞こえたのか、雅子ママの爆弾が破裂しました。
「アナタみたいな大嘘つきはじめてだわ!」
「この期に及んで、自分の童貞を棚に上げて、よくもそんなデタラメが言えるわね」
「ネエ、頭だいじょうぶ?」
二人に信用されないばかりか、頭を疑われる始末です。事態はさらに悪化しました。

「ちっとも話が噛みあわないですね……しょうがない、私が言うことを二人に口伝てしてください」
しびれを切らした小早川さんは、もはや仕方ないと自ら解決に乗り出しました。
それはこの店に勤める小早川さん、いえ、ユミさんでしか知り得ない二人のプライベートなことでした。
両手を胸の前で合わせ、恐山のイタコの口寄せを真似た俺は小早川さんの言葉を一字一句反芻しました。

「ママの住まいは高田馬場の駅に近いマンションで、ノリ子姉さんは赤羽に住んでいます」
狐につままれたような顔とは、まさに今の雅子ママとノリ子さんのことを言うのでしょう、
二人はキョトンとして顔を見合わせています。
「ママがお店の帰りに立ち寄る早稲田の居酒屋にいるアルバイトの男の子がママのお気に入りで……」
「――先月その子の誕生日祝いに赤いビキニのパンツをプレゼントしたら、その子お店辞めちゃって、ママ落ち込んでいる……」
ホンマデッカ!
「ムエタイのジムに通っているノリ子姉さんは、そこに来ている一番弱い中年男性に惚れている……」
「――ママは先週……」
「ワカッタ、ワカッタから、もうやめてちょうだい!」
「ノリ子、気味が悪い……これどういうことなの」
唇を噛み締め、向かいの空席をじっと見つめるノリ子さんの表情が曇ります。
「遠山さん、本当のことなのね……」

「本当です。こちらに来たいきさつはお話した通りです」
「ユミちゃんは私たちの声は聞こえるの?」
「聞こえています。ママさんの隣で頷いています」
「小早川さんの声はお二人には聞こえませんよね、俺が代わりに小早川さんの声をお伝えします」

咳払いした雅子ママは小早川さんに向かい合います。
「ユミ、あんたって子は……」
「ママ、ごめんね。急に倒れちゃって、なんで幽霊になれたのか自分でも分からないけど……」
「――隣の遠山さんが私の姿を見ることができて、ラッキー!」
ずいぶん明るい幽霊だと、身振り手振りを交えた俺の口寄せが信じられないとばかり雅子ママは睨みつけます。

「それでユミちゃん、そうまでしてお店に来たのは訳があるの?」
「遠山さんにスマホの画像を消去してもらっているとき、ママから電話があって、良くしてくれたママとノリ子姉さんに、お礼を言わなきゃってね、迷惑だったかナ?」
あの時の電話の相手は、てっきり小早川さんの母親からだったと思い込んでいましたが、雅子ママからだったとは……。
俺をお店に誘う小早川さんの巧みな口実、店の入り口で、あえてユミさんの紹介と言わせ、雅子ママとノリ子さんに俺の相手をさせるように仕向けた策略――すべての謎が解けました。

「迷惑なことなんてないわ。ないけどね、幽霊にお礼言われたって、ましてや他人の口から言われたって、ハイそうですかって気分になれないわ」
明らかに機嫌を害した雅子ママの声が尖ります。
「遠山さんが言うには、あなた死んでないんでしょ?死んでないのに幽霊になって人騒がせな!」
「お礼に来るなら生身の身体で来なさいよ!!」
バーンとテーブルを叩いた雅子ママの剣幕に俺と小早川さんは飛び上がります。
両手で顔を覆ったノリ子さんは、テーブルから逃げるように離れ、カウンターにうつ伏した背中を震わせています。

「もう、帰ってちょうだい!」
怒り心頭を露わにした雅子ママに俺は背中を強く押され、店を追い出されました。
「生身で来い!」
ドアを閉め際叫んだ、雅子ママの怒鳴り声が、耳から離れることはありませんでした。


つづく。


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ひと夏の経験 7

それは一瞬のことでした。
まさしく電光石火の如くノリ子さんの前腕が俺の胸に食い込み、身体を壁に押さえつけられました。
グルシイ~
ノリ子さんは嘘つきです。自分からは絶対に手を出さないと言っておきながら、このありさまです。
それにしてもなんて力でしょう、女性とは思えません。

ノリ子さんの怒鳴り声で店内が静まり返ります。
なにごとが起きたのか、誰もがこのテーブルを注目しています。
鬼の形相を瞬時に一転させた雅子ママは、さも呆れ困り果てたとばかりに唇と尖らせました。
「もう、こちらのお客様、格闘技がお好きなんですって。ノリ子ちゃんと馬が合って、さあさあ、みなさんご心配なく、ウフフ」
あちこちから失笑が漏れ、店内の雰囲気は元に戻りました。
さすがに百戦錬磨、場慣れしたクラブのママの貫禄を見せつけます。
いえ、感心している場合ではありません。
なぜこんな目に合わなければならないのか、せっかくの花の金曜日が、地獄の金曜日になり果てました。

「お、お二人には、俺が殺人犯に見えます?」
「ミ・エ・ル」
またもや二人の声が見事にハモリます。
「ママ、一見おとなしそうな男が危ないのよネ」
「そうよ。虫も殺さないような顔して、殺人鬼だったりするのよ。ドラマの犯人ってみんなそうじゃない」
「わたし長い間水商売やってるけど、殺人鬼がお店に来たのははじめてよ。怖いわ」
頷くノリ子さんの腕に力がこもります。
グルシー、ダスケテー

このままでは、二人の女性捜査官による恐怖の取り調べを受け、俺は殺人犯に仕立て上げられてしまいます。
誤解が解けず、万が一警察に通報され連行されれば、事の真実は明らかになりますが、会社が知ることにでもなれば、警察沙汰を起こした俺はクビになってしまうでしょう。
どうしてこんなことになってしまったのか、幽霊の小早川さんの話をうかつに信用してしまった俺の下心が原因なのか、それともここは暴力バーだったのか……。

その時です。この危機的状況を救ってくれる天からの声にノリ子さんの押しが緩みました。
しかし残念ながら声の主は小早川さんではなく、件の紳士でした。
何事もなかったように腕を離し両手を払ったノリ子さんは、きまり悪そうに声の主に小さく会釈しました。
「ママ、お取込み中悪いが、今夜はこれで失礼するよ」
「ターさん、もうお帰り?お相手できなくてごめんなさい」
「ユミちゃん、よんどころない用事で今夜は来られないみたいなの……」
「ノリ子、好みのタイプだからって、あまりイジメちゃいかんよ、ハハハ」
「もう、ターさん違うわよ」
腰をもじつかせたノリ子さんは、照れくさそうにグシャグシャになった俺のスーツの襟を丁寧に伸ばしましたが、目は笑っていません。
見送りに立った雅子ママは、俺を横目で睨みます。
「ノリ子、絶対に逃がすんじゃないよ」


息を切らせ大急ぎでテーブルに戻ってきた雅子ママは、大きな顔に流れる玉の汗をハンカチで扇ぎ、取り調べが再開しました。
俺の二の腕を掴むノリ子さんを、もしちょっとでも押し返そうとでもすれば、俺の腕は木っ端みじんに……今まで以上に慎重な対応が求められます。
それにしても、小早川さんがユミさんとは一体全体どういうことなのでしょう。
「ち、ちょっと待ってください。お二人ともなにか勘違いしてませんか?」
「隣の小早川さんは男ですよ、ユミさんは小早川さんの彼女です」
「オマエ、寝言言ってんの?寝言は寝て言えよ」
鼻で笑うノリ子さん言う寝言とは?

「ノリ子、親切丁寧に教えておやり」
あきれ顔の雅子ママは、口を利くのも億劫そうに顎でノリ子さんに指図します。
「よく聞きな。ユミの本名はコバヤカワユヅル、弓矢の弦と書いてユヅル、だからユミ!」
俺は漢字を頭の中に浮かべます。弓弦とは男性女性どちらの名前でもおかしくありません。名前を聞いただけでは性別の判断はできませんが、幽霊の足は確かに男の足でした。
それに興味津々とサシコの写真集に見入る小早川さんの男目線……どう思い返しても小早川さんがユミさんという女性と結びつきません。

さも鈍い奴だと、苛立つ雅子ママは、二本指でテーブルを叩きます。
「ここどこだと思っているの!」
『暴力バー』とでもギャグをとばせば、場が馴染む……馴染むわけないよな……火に油を注ぐのは間違えありません。
「小早川さんから気さくなお店だと伺っています」
「確かに気さくですけどね、気さくもお客様によりけりよ」
「アナタ、本当にウチがどういうお店だか知らないで来たの?」
「お前、いつまで惚けるのか!」
俺の返答に業を煮やしたノリ子さんの衝撃の一言!
「ここゲイバーだぞ!」
「――ゲイバー?……」

口をポカンと開けた俺は店中を見まわします。
「ウソ……それじゃここにいるホステスさんはみんな――オ・ト・コ?」
「チンコ付いてるゼ」
「ノリ子、下品なこと言うのおよし」
なんということでしょう……全身から力が抜けました。
肩を落とした俺の様子が観念した犯罪者に見えたのでしょう、顔を見合わせた二人は、満足げにほくそ笑んでいます。

「アンタ、もう言い逃れできないわよ。ユミちゃんをどうしたの?」
「どうもしていません!」
すべてのことの成り行きを、やっと理解した間抜けな俺は、毅然たる態度で言い返しました。
「小早川さんおとといの昼間、笹塚の通りで、くも膜下出血で倒れたんです」
「くも膜下出血!」
「救急車で病院に運ばれたんですが、意識が戻らなくて、小早川さん、よほど困ったことがあったようで、幽霊になって俺の部屋に現れて、助けて欲しいって……」
「作り話はもうやめて、お願い本当のこと言ってちょうだい、あなたがユミちゃんの部屋に忍び込んで、乱暴して殺したんでしょ」
「なんで俺がお隣とはいえ、見も知らずの、それも男の部屋に忍び込まなければいけないんですか!」
「そんなこと言ったって、ユミちゃんとのっぴきならない関係になったって頷いていたじゃない」
俺はこのときノリ子さんが訊いた、のっぴきならない関係がどういう関係を意味するのか悟りました。
二人の恋愛対象は、俺とは違っているのです。

俺は雅子ママが先ほど言った、男は勘違いはなはだしく、思い込み激しいということを身をもって実感しました。
「お二人とも冷静になってください」
「オマエモナ」
何度も見事にハモル二人の声。

「お二人には信じられないことかもしれませんが、本当のことです」
俺は額の汗を拭い、おとといの深夜からのことを包み隠さず打ち明けました。
幽霊の小早川さんに拝み倒され、7階のベランダから小早川さんの部屋に入ったこと。
部屋にあった女性の洋服と靴、すべてを言われた通り俺の部屋に運び入れたこと。
スマホに保存されていたユミさんの画像を、今夜俺の部屋で帰りを待ち構えていた小早川さんの代わり消去したこと。
ユミさんにもう一度会いたいと憔悴する小早川さんに同情して、一緒にタクシーに乗って店まで来たこと。
そして、今この店に小早川さんの幽霊がいることを、確信を持って告げました。

「ノリ子……この坊や、巷で言う電波坊やなの?」
こめかみで人差し指をクルクル回す、雅子ママの困り果てた顔。

「ママ、面白そうだから、かまってみる?」


つづく。


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ひと夏の経験 6

話の流れが、どうにも腑に落ちないとばかりに、雅子ママは気味悪そうにノリ子さんに顔を向けました。
「そうだった。ママ、ユミはあれから笹塚に移ったんだわ」
「ねえ、なんなの。笹塚繋がりのことばかりで……」
雅子ママが首を傾げるのも無理ありません。
すべての発端は、笹塚にある俺の部屋からはじまっているのです。

「ねえ遠山さん、あなたもお仲間なのは分かったわ。あなたを信用しないわけじゃないのよ、でもあの子に彼氏がいることがピンとこないのよ」
言葉を選び、真摯な態度が好印象を与えたのか、はやくもこの店の仲間のひとりとして認められました。
華やかな女性たちの秘密の会話に加わる……ついに俺も大人の男と認められたと感慨に浸ります。

「あのね遠山さん、ユミちゃん、男で大変な目にあっているの」
雅子ママはノリ子さんの顔色を窺いながら呟きました。
「大変なことですか?」
大変なこととは、いったいどんなことか、ましてや男がらみのこと、今度は俺が身を乗り出しました。
首をすくめたノリ子さんを気遣うように、雅子ママは浮かない調子で話を切り出しました。

「彼女がね、遊びに行くバーでね、事件があったの」
「あの子、遠山さんが見たような画像を自分のサイトに上げていてね、あなたが言うように可愛い形をしているから、人気者だったのね」
「自分の姿だけなら何の問題はなかったのに、週末はこのお店にいます、なんてお店の看板とかをアップしたから、居場所が特定されちゃったの」
「憧れの子がそこにいると分かれば、その手の男は会ってみたいと思うじゃない、あなたみたいに」
「――そ、そうですね……」
雅子ママは俺の下心をとっくに見透かしていました。

「はじめは偶然を装ってユミに近づいたのね。たぶんその男はサイトでユミとツイートし合っていたんでしょう。だからはじめて会ったのに、昔から知り合いみたいに意気投合してね、何度かそのバーで会っていたの」
「勘違いさせたユミも悪いの、男ってすぐ勘違いするし、思い込み激しいから」
「す、すみません……」
小心者の俺は自分のことを言われているようで、身を縮めました。
「あなたが謝ることないの!いい人ばかりじゃないってことなの!」
「その勘違い男が、場所もわきまえずユミに交際を迫ってね、ユミが色よい返事をしないものだから、嫌がるユミを強引にバーから連れ出そうとしたの」
「その場に雅の常連さんと居合わせたノリ子ちゃんが、この子、正義感強いから、仲裁にはいったの」

「二人のやり取りが、嫌でも耳に入ってさ、同類のユミのことを見下してバカにするから、頭きちゃってさ――遠山さん聞いて!わたしからは絶対に手は出さないかったわ」
話を引き継いだノリ子さんの鼻息が荒くなりました。

「もう売り言葉に買い言葉で、その男、頭に血が上ったのね、私の胸倉を掴んで押し倒そうとしたの、だからチョンと足払いしたら床にひっくり返って……」
「チョンとですか?」
「そうよー、軽くよ。しょうがないねって起こそうと手を貸したら、そいつ起き際、いきなりナイフを私の顔に向けて振り上げて」
目を吊り上げたノリ子さんは、まるでボクサーが相手のパンチをよけるように右腕で顔面を防御し、身体を左に振り再現しました。
「ノリ子ちゃんは反射神経抜群だからねぇ~」
顔をほころばせた雅子ママは、ノリ子さんの鋭い動作を惚れ惚れと見ています。

「サッとかわしたんだけど、肘から血がタラリって」
「わたし、スイッチ入っちゃって、ナイフを叩き落として、そいつの右腕をバキって……」
「折ったんですか?」
「知らないわ、腕抱えて泣きながら逃げてったから」
「わたしとユミはその店出入り禁止になっちゃうわ、夜間診療に駆け込むわ……その晩は散々だったわ」
「ユミも懲りて、しばらく大人しくしてたんだけれど、出掛けるところなくなって、つまんないって言うから、ママに相談したの。ママ、ここなら心配ないから遊びにおいでって言ってくれて」

「いろいろお話してね、人見知りもしなくて人当たりもいいのね、お客にしておくのはもったいないのよ」
「ノリ子ちゃんを姉のように慕っていて、ノリ子ちゃんの勧めもあって、もしよかったらここで働いてみるって水を向けたら、二つ返事でね。平日はお勤めしているって言うから、週末だけバイトに来てもらうことになったの」
「今まで遅刻も無断欠勤のなくて、根が明るい子だからお客様に可愛がられて、なんの問題もなくてね……」
「そのユミちゃんが、彼氏……それも隣の部屋に忍び込むような破廉恥な輩だとは、私とても信じられないの」

居ずまいを正した雅子ママは、真剣な面持ちで俺に向き合います。
「遠山さんよく聞いて。ユミちゃん、おとといから連絡が付かないの、誰が電話しても出ないの」
「あなたがそのお隣さんに襲われたのがおととい、その男が平然とユミちゃんの写真をあなたに見せたのが今夜、その男はユミちゃんが店にいないのを知っていながら、あなたを店によこした……」
「誰が聞いても妙な話よね」
「ちゃんと説明しないと帰さないよ」
ノリ子さんにすごまれ、恐怖に震え、腕を擦った俺は、もはや真実を話すしかありません。

「――信じられないかもしれませんが……お隣さん幽霊なんです」
「ユ・ウ・レ・イ?」
二人の声が見事にハモリます。
「アンタ!そんな子供だまし言って、ただじゃおかないよ!」
すごい剣幕で俺を睨みつける、雅子ママの雷が落ちました。
「嘘偽りなく、本当です、本当のことです」
「オマエいい根性してるな!それじゃ聞くぞ、その幽霊の名前は、名前を言えよ!」
ノリ子さんに吊し上げられ、絶対絶命のピンチです。
「お、お隣の幽霊の名前は――小早川さんです」

「ナニ!テメー、ユミを殺したのか!!」


つづく。


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ひと夏の経験 5

俺と小早川さんを招き入れた女性のあとから、落ち着いた明かりの店内を進む。
真直ぐ伸びた長い脚、モデルのように優雅に歩く後姿、それに引き換え俺の膝は緊張でカクカクと音を立てている。スターウォーズに登場する金色のロボットのように、ぎこちなく歩く俺に向ける物珍しそうな客たちの視線が痛い。

テーブル席は大方が埋まっていた。俺は壁際で女性と談笑していた中年紳士の席に案内されます。
「ターさん、ごめんなさい。悪いんだけど席譲ってくださる?ママがこちらの方とお話があるみたいなの……」
ママからお話し――いったいどういうことなのか……不安になった俺は、後ろにいた小早川さんに……小早川さんがいない!
焦って店内を見まわすと、小早川さんは席を飛び回りはしゃいでいます。
はしゃいではいますが、誰も気付きません。今この店の中にいる人たちには幽霊の小早川さんが見えないようです。きっと、ここにいるユミさんにも彼氏の姿は見えいないに違いありません。
悲しくも、愛は奇跡を起こしませんでしたが、俺の誠意が試される状況になったきました。

俺を一瞥した紳士は、どうぞどうぞ、と気前よく席を譲ってくれましたが、すれ違いざま俺の尻をポンとたたき、意味深な薄笑いを浮かべ立ち去っていきました。
意味ワカラン!
ソファーの一番奥を勧められた俺は、案内した女性と並んで腰を下ろし、待ちかねたように、金髪のボーイさんがテーブルを片づけます。
「ちょっとお待ちになって、すぐママが来るから」
彼女から覚えのある甘い香りが漂います。さて、どこで嗅いだのか……。

渡されたおしぼりで両手を拭っていると、ほどなく紫のロングドレスの裾を摘み上げ、真っ赤なエナメルのヒールを見せびらかすように闊歩する、体格のいい女性が笑みを浮かべ俺の前に腰をおろしました。
「はじめまして、雅の雅子です。よろしく」
髪の毛をアップに結い大きな顔がさらに強調されているような印象です。酒がれした声は夜の仕事の年季を感じさせます。
「お隣はノリ子ちゃん」
「ノリ子でーす、よろしく」
「……」
「ああ、遠山です。不慣れで失礼しました」
「いいのよ、こういうお店にはじめておひとりでいらっしゃるのは勇気のいることよ。みなさん二次会とか三次会の流れで、大勢でいらっしゃるのよ」
やはり雅子ママにも小早川さんの姿は見えてはいませんでした。
「おビールでいいかしら?」


ノリ子さんに酌され、三人でお決まりの乾杯で小さなグラスを掲げます。
冷えたビールが緊張で乾いた喉に染みる。ウメ~
「ユミちゃんの紹介と伺って、みんなびっくりしちゃって。あの子今まで一度もそんなことなかったのね」
「失礼だけど、ドアの外の遠山さんの様子がね、なにか訳ありに見えるって、ノリ子ちゃんが言うから、ちょっと気になることがあってね、入っていただいたの」
「ユミちゃんとはいつお知り合いになったの?」
俺とユミの関係に雅子ママは疑問を抱いている。さすがにこれだけの店を切り盛りする女性ならではの鋭い勘に感心しました。
俺は店内に目を泳がせ、小早川さんを捜します。
小早川さんは先程席を譲ってくれた紳士の隣に腰かけ、俺の視線に気づいたのか、微笑みだけを返し、こちらに来る素振りも見せません。
この店に来るまでのいきさつを、二人にどう話せばいいのか、ない頭を絞ります。

「――実は、先程なんです」
「ちょっと待って、先程って、今夜?」
「はい、そうですが……」
「遠山さん、ユミちゃん今夜はお休みなのね。ご存じなかった?」
「えっ、お、おやすみですか?」
小早川さんから聞いていた話と違う現実を突きつけられ、ここは退散した方がよさそうだと、危険を察した胸のカラータイマーが赤に変色しはじめる。
「それじゃ、また改めて……」
腰を浮かせた俺は、にじり寄るノリ子さんに両肩を押さえられ、ソファーに沈みこんだ。
ヒェ~!と悲鳴を上げてしまった俺でしたが、どなたかが歌いだしたカラオケの音に消され気付く人はいません。
「ノリ子ちゃん、乱暴はいけませんよ。遠山さんごめんなさいね、ノリ子ちゃん武術の有段者ですけど、ゴキブリ一匹も殺せないの、本当はとても臆病なのよ」
無言で睨むノリ子さんの怖い顔からは想像できないことでした。怖いお兄さんはいませんでしたが、怖いお姉さんはいました。

「お話の続きね、今夜どこでユミちゃんと会ったのかしら?」
ノリ子さんに退路を塞がれ、頼みの小早川さんには無視され、俺は孤軍奮闘するしかなかった。
「正直に言いますと、ユミさんとは実際にお会いしたことはないんです」
「それ、どういうことかしら!」
急に雅子ママの声が棘立ち、焦りました。ここは誠意を尽くし、慎重に言葉を選ばなくてはいけません。

「えーとですね、ユミさんとお付き合いしている彼氏さんのスマホに保存されていた、ユミさんの画像を見せてもらって――可愛い人だなって思いまして……」
「ナニ、ユミの彼氏!!」
目を丸くさせた二人は驚きで上げた声を、両手で口を覆いのみ込みました。
やはり、お店の中でホステスさんの彼氏の話は禁句なのでしょう、顔を寄せ合った二人は、コソコソ呟きます。
「ノリ子、ユミの彼氏って、知ってる?」
「ママ、聞いたことないわ。だってあの子……」
「そうよね……」
「遠山さんとその彼氏とはお知り合いなの?」
上目づかいに小声で尋ねる雅子ママに、俺はテーブルの上で腰を屈め顔を寄せます。
確かに小早川さんは気さくな店だと言っていましたが、一見客でしかない俺への二人の客あしらいは、フレンドリー以上なものを感じさせます。
やはりクラブと名の付くお店だからでしょうか、先輩に連れて行かされたキャバクラの女の子たちとは全く違います。
俺も自然と声を落としました。

「知り合ったのはおとといの深夜ですが、寝ているところに突然現れまして……」
「サウナかどこか?」
「いえ、自分の部屋です」
「えっ、部屋で寝ているところに、突然!やだ!それで、それで」
なぜか俺の話に身を乗り出した二人は、話の続きを急かせます。
「急なことで驚いたんですが、そんなことはじめてのことですから……」
「怖かったんですが、どうしてもって」
「そりゃ怖いわよ。身の危険感じるわよ」
「それで遠山さんは、その彼とのっぴきならない関係になったのね?」
ノリ子さんの言う、のっぴきならない関係がどういう関係なのか、よく分かりませんでしたが、せっかく打ち解けた雰囲気に水を差すこともないので、俺は軽い気持ちで頷いていました。

「ノリ子ちゃん、そんなこと実際にあるのね」
派手なため息をついて、大きく開いたドレスの胸の弛みを直す雅子ママ。ちらつく豊満な赤いブラジャーに目のやり場に困る俺に、雅子ママはニタッと微笑みました。
母以外の女性の下着、それも情熱的な赤い下着を見たのははじめてです。

「そうよママ、今は信じられないようなことが平気で起こるのよ」
確かに信じられないようなことが俺の身の回りに起こったのです。
「その彼はどこの人なの?」
「隣の人です」
「えっ、えっ、お隣さん!」
「お隣さんが忍び込んできたの?呆れた……でもよく見るとあなた可愛い顔しているもの」
「ねえねえ、遠山さんのお部屋ってどちらにあるの?」
興味津々に瞳を輝かせるノリ子さんは尋ねます。
「笹塚のワンルームマンションです」
「笹塚!ここから近いじゃない。私、引越し考えているのよ」

「ねえノリ子、ユミも笹塚だったわよね?」


つづく。


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